わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

数ミリ角の小さなチップ

今朝,何を書こうか迷っていたところに,朝食をとりながら,朝日新聞1面の連載に目が留まりました.
「ロストジェネレーション---25〜35歳」の10回目です.

夫の死後[引用者注:自殺による],しばらくして,完成した部品が実家に届いた.
「こんな小さなもののために」.母の手のひらに,数ミリ角の小さなチップだけが残った.
「頑張ることを求められ,まじめに頑張ったあげくにつぶされた」.妻はそう思えてならない.

記事をきちんと読めば,「命を捨ててまで働くような社会はいけない」とという趣旨なのですのですが,上の表現にはどうも釈然としません.
思考実験をしてみますI'm trying to imagine.この亡くなった方が,巨大な船を作っていて,完成のときに「母」や「妻」がそれを見たら,反応が違う(例えば涙したり,船と息子/夫を同一視する)のでしょうか? あるいは「こんな鉄の塊のために」のようになるのでしょうか?
どちらだろう.さらに考えてみました.
反応が違うなら…教育に携わる者として,技術者を社会に送り出す者として,そこで反応が違うことに,私は悲しさを覚えます.数ミリ角のチップになるまでに投じられた様々な人の情熱やエネルギーは,1隻の船を造るのと変わらないから.ましてや情報の分野では,形にするのが必ずしも容易でない「情報」を創り出すことで利益を得ることが,往々にしてあります.
例えば卒業研究*1.それぞれの学生がさまざまな形で努力をして,最終的に卒業論文として取りまとめ,教員はそれを見て,「よくやった」という気持ちが湧き上がるのが,理想です.学生はそのときは疲れているか,書いた卒論に恥ずかしさを感じることが多いですね.
形になるとは限らないものに情熱を費やすことの大切さ,そしてその経験が社会に出ても役に立つことを,例えば卒業式で挨拶に来たときに伝えたいものですが…さて新聞記事に戻りまして…むなしさを感じるのです.
と,書いていて脱力感も出てきたので,あとは控えめにします.「こんな鉄の塊のために」であれば,これは,仕事とその周辺に対する,亡くなった方の情熱やエネルギーが,最愛の人々に伝わらなかったということです.仕事に限らず,趣味でも,人間関係でも,当人だけが異常に労力をつぎ込んで,それが周囲に伝わらないのはよくあることです.

*1:JABEEの講習会を受けたときに,「日本の典型的な卒業研究では,成果物が薄っぺらい“卒業論文”しかない」という批判(おそらく海外からでしょう)を紹介されていたのを,強く覚えています.