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『なぜ勉強させるのか?』の「マニュアル」

まだ読んでいる途中です.
教育の目的として「知識を学ぶ」と「人間として成長する」という二つの軸を挙げ,著者は後者を支援する立場で論評をしていっています.この軸設定は,新鮮な切り口に映りました.ただしその妥当性は,関連書を読まないと分かりません.
なんで途中なのに書評を書きたいのかというと,5章(「百ます計算」・陰山メソッドの注意点)に歯切れの悪さを感じたからです.章全体として何を主張したいかが分かりにくいし,この章は,子供を持つ親にどんなメッセージを発しているのか分かりません*1
本の中では瑣末なことですが,大きな違和感を受けた記述があります.pp.148-149です.

陰山さんは<親子の関係にマニュアルはありません.すべてケースバイケースです>と喝破しながら,それでいて子どもの荒れについてこうサジェスチョンする.<僕からすれば,子どもが荒れるのは,学習の問題でも成績の問題でもなく,親子関係の問題です.「こんなに成績が悪くてどうするんだ」と親が子どもを突き放してしまうから荒れるのです>という.
このコメントは親子関係にマニュアルがあり,ケースバイケースではないと言っているに等しい.親は子を突き放してはいけないというのは,親子関係のパターンを固定化したうえで出てくるマニュアルである.しかし,子どもによっては,あるいはケースによっては突き放したほうがいい場合もある.成績や学力について,親の保護下や監視下から解き放し,彼や彼女の自由にしたほうがいいこともある.

主張については,陰山さんのも,著者(諏訪さん)のも,どちらも参考になります.また,ここではともにマニュアルという概念を否定的に捕らえているのも,理解できます.
違和感というのは「マニュアル」の解釈です.陰山さんにとってのマニュアルは「Aのときには,Xをしなさい」の意味だと感じました.諏訪さんは,「Aのときには,Xをしてはいけません」も,マニュアルに含めるようです.
論理的に,あるいは実用上も,この二つの解釈は異なります.「Aのときには,Xをしてはいけません」とあったとき,「では何をすればいいのか?」を考えないといけません.状況に応じて,妥当な解を考え,適用(実行)するのが,『ケースバイケース』となります.
結局,「Aのときには,Xをしてはいけません」をマニュアルに含めるのは,無理があるように思えます.

*1:「子供を持つ親」を読者層と見なしていないなら,この違和感は私の杞憂ということになりますが.