わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

小気味いいの2冊と勉強になる1冊

昨日,大阪の書店で買って,帰りの電車で読みました.

フィアットパンダ,燃えるゴミ/燃えないゴミ,「ヤッパ スシサイコウ」などで笑いました.
固有名詞こそ出していないけど,ドラえもんミッキーマウスたれぱんだ和田アキ子北島三郎などを伺わせるコマも,にやっとしました.
笑いの方向性は,エレキングに似ているような.
最後の1冊は,「デザイン」をその専門家が語るのを学ぼうということで購入したものです.AQUOSのデザインで有名な著者の喜多俊之氏.うちの学部のデザイン学科で客員教授をされていたような記憶がおぼろげにあるのですが,Googleで見た限りはそのような情報を見つけることができず,どうも思い違いのようです.個人的に面識はありませんが,研究室のボスは,2000年前後に付き合いがあり,そのころによく名前を聞いていました.
こちらの本はまだ,頭から40ページほどと,終わりの数ページくらいしか読んでいません.ともあれ,まずデザインをどのようにとらえているかが気になりまして,当然「デザイン」の本ですから,最初の章に出てきました.

ここで,前提として述べておかなければならないことは,「デザイン」という言葉の定義です.日本語では「意匠」,中国語では「設計」と訳されてきた言葉ですが,本書では「機能性や安定性,経済性,それに形や色など多くの要素が全体的にバランスが取れている」という意味で述べていくことにします.
(p.18)

情報の分野では…というのが大げさすぎるなら,私が指導している範囲では…「デザイン」や「設計」の後ろに「する」をつけます.すなわち“行為”です.デザインする,設計する,そのためにどのような手法があってどれを適用すればいいか(を教えること,そして自ら実践すること)に苦心しています.
しかし上の定義は,「デザイン」のうしろに「された」をつけて,“状態”と解釈するのがよさそうです.プロトタイプ,そして完成品を作るための努力・苦労は暗黙のうちに含まれていて,その結果として,生産され,家庭で社会で使われていくというプロセスの見通しを重視して「デザイン」を定義しているのだ,と言えそうです.