わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

その行動様式

大学院生のときに,確か金沢駅そばの書店で見かけて購入し,今も時折広げる本があります.

科学者とは何か (新潮選書)

科学者とは何か (新潮選書)

後半は,科学者倫理,研究者倫理に関する話です.マンハッタン計画は一応知っていましたが,それによる研究者への影響は,この本を読むまで考えることはありませんでした.バイオについては,アシロマ会議と生物学的封じ込め,その後の物理的封じ込めが紹介されています.
分野ごとの研究のほかに,自己評価,論文数,科研費といった,研究者自身が頭を悩ませる事項も取り上げています.自分自身は科研費にせよ共同研究にせよ,外部資金の管理は学内の事務にお任せで,研究者の責任で通帳管理をするのはあまりにも煩雑だなあと思うものです.
とはいうものの,読んでいて面白かったし,学生*1にお勧めしたいのは,この中の4章と5章です.4章は「その行動様式」という章題ですが,一言でいうと,「査読つき論文の重要性と問題点」です.5章は「その倫理問題」で,不正(と罰則・サンクション),競争,(ノーベル賞に代表される)称賛と,そのもとでの研究者倫理が整理されています.
以下の引用は,著者の東大先端研での出来事*2だそうです.

「系」には,各専攻課程から二名ずつ出席して構成される「系委員会」というものがあって,「系」の運営を合議で決める.例えば,ある専攻課程で次年度の非常勤講師を誰に何という講義題目でお願いするか,というようなことも,そうした合議事項の一つである.したがって,年度の終わり近くの委員会では,各専攻からそうした次年度の人事の書類が多数提出された上で,承認の手続きを行う.とは言っても,それはほぼ形式的なことで,各専攻の提出した案が否決されたりすることは先ず考えられない.普通は質問も出ないまま,機械的に審議が進む.ところが,われわれ科学史・科学哲学の選考課程から提出された案には,ほとんど必ず,質問があった.
科学史・科学哲学という学問の性格上もあって,純粋の歴史研究者や哲学の研究者(つまり,人文学系統の先生方)を非常勤講師にお願いすることが多い.例えば,中世イスラム世界の研究者や,フッサール哲学の専門家などをお招きするわけである.そうした先生方でも,当然履歴書の他に「業績リスト」が必要である.そこで,それを書類にして委員会に提出することになる.
しかし,その種の「業績リスト」に掲げられている「論文」の発表媒体は,例えば岩波書店から刊行されている『思想』とか,あるいは青土社から発行されている『現代思想』など,つまり言い換えれば一般の商業誌であることがしばしばである.むしろ,人文系の場合には,よい仕事をしている研究者ほど,そういう媒体に「論文」を載せる機会が多くなるとさえ言えるかもしれない.ところが,それを読んだ委員会のメンバーの誰か(例えば物理専攻の先生や化学専攻の先生)が,お訊ねになる.“この何某先生の「業績リスト」に載っている何某という「論文」は『現代思想』に発表されたものですね?”私は当然答える.“そのようですね”.すると,重ねて次のようなご下問がある.“で,この雑誌にはレフェリー制度はあるんでしょうか?”
最初のうち,私は,これは純粋に質問だと思った.したがって,レフェリー制度が設けられているわけではないが,投稿論文で掲載したいようなものがあった場合には,外部の誰かに掲載してよいかどうかの判断を訊ねることはあるので,実質上レフェリーの機能が働いている場合はあるというように,真面目に答えていた.しかし,余り度重なるので,鈍い私もやがて気が付いた.これは,質問ではなくて,嫌がらせの儀式なのだということに.というのも,あるとき,質問した先生が,“それでは,あなた方の分野では,レフェリー制度がないような媒体に発表されたものでも,「論文」とお認めになるのですね”という念押しがあったからだ.私の「鈍感さ」を悟らせてやろうという有り難い親切心だったに違いない.

つまり,問題の核心はここにある.少なくとも自然科学系の分野では,「論文」とはレフェリー制度を備えた媒体に掲載されたものでなければ,そう呼ばれる資格がないのである.レフェリー制度,これが,専門学会がここ一〇〇年の間に備え付けた,科学における研究活動にとって重要,不可欠な装置の一つである.
(pp.64-66)

このエピソードは,いろいろな教訓を持っています.査読付き論文として成果を公表していないと,人事の審査*3で,面倒をかけてしまうのだとか,もっと素直に,理系と文系で,研究業績の捉え方,カウントのしかたが異なるのだということもうかがうことができます.
用語の補足を.上の「レフェリー制度」を,縮めて「査読制度」といいます.1回の査読,すなわち一つの投稿論文を読んで採否を決めるプロセスを「レビュー(review)」といい,より大きな枠組みでは,「ピアレビュー(peer review,同業者評価)」と呼ばれます.査読が通って公表された論文は,そうでないのと区別するために,業績リストに "reviewed" または "refereed" と書かれることがあります.現在の主流は,査読付き論文とそうでないのを区別して,業績リストにすることですかね.論文を手にしているときに,それが査読付きか否かを手っ取り早く確認する方法があって,「投稿日(submitted on)」と「受理日(accepted on)」が書かれていれば,査読付き論文です.ただし,国際会議は,査読がなされていても,これらの日付がありません*4
さて,引用に戻りましょう.最後の「つまり」は別として,それより前の部分には,数ページ前に節題がついています.「嫌がらせの儀式」です.
日常,この種の嫌がらせの儀式を受けて,もう2年になります.ローソンで,Edyのカードで支払うのですが,毎回「ローソンパスカードはお持ちですか?」と聞かれます.顔なじみと思しき店員さんからも.
最初のうち,私は,これは純粋に質問だと思いました.「いえ,持っていません」と答えていたのですが,しかし,あまり度重なるので,鈍い私も1か月で気づきました.これは,質問ではなくて,嫌がらせの儀式なのだということに.
さすがに,“ローソンパスカードをお作りになりませんか?”と聞かれたことはありませんが.

*1:とりわけドクターコースに在籍しているか進む予定で,研究や,アカデミック・キャリアパスに関心がある人.

*2:『先端的な科学技術の研究機関でありながら,全講座数の六分の一近くが,非理工系に配属されているという,一見奇妙な構造である.無論,科学史・科学哲学あるいは科学社会学を勉強してきた人間にとっては,占めるべき場所は,その六分の一の一角しかない.「科学技術倫理」というのが,私が担当することになる研究分野であった』(あとがき,pp.182-183)

*3:非常勤講師の採用だけでなく,自分の身の周りでは,昇任や,他大学への移動というのでも,効いてくるわけです.

*4:prefaceに投稿数と採択数が書かれていれば,その率を求め,会議の質を測ることができます.まあ,会議の質に関しては,評判というか伝統というかのほうが大きいのですけど.