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ゼミで学生からの質問を奨励する理由

教員は,なぜゼミで質問を奨励するのでしょうか? 自分の考えを,書いておきたいと思います.
まず,学生が質問し,議論してくれれば分,教員は何も考えなくていい,楽できる…という理由は,ありません.
どの教員も,質問したいのです.発表者や,発表の場全体に,良い影響を与えたいのです.自分なりの経験や信念をもとに,この方向に進めば正しいんだろう,関係する人々がハッピーになれるだろう,と多かれ少なかれ考えながら,質問やコメントをします.
といっても,質疑を自由放任にしていると,話し好き・話し上手な教員の時間が長くなりがちです.「声の大きい人が勝つ」ですね.
発表者以外の学生は,その内容が自分に密接に関係しない限り,問題意識を持ちにくいものです.あるいは,他の先生や学生が質問してくれるからいいや,という考えにもなりがちです.当事者意識の希薄化,とでもいいましょうか.
部屋の後方に座り,点呼で返事をし,あとはぼーっとするか内職をして,自分の発表だけ乗り越えればいいや…では,ゼミを実施する教員としては嬉しくありません.そこで手を替え品を替え,ゼミが,発表しない参加者にとって,学びの場となるよう,工夫しているのです.そういう工夫は一概に否定できません.
私自身もこの日記でいろいろな手法を提案してきました.そのいくつかは提案後に実施してみましたし,いくつかは学生・教員とのやりとりをもとに,こうすれば良かったんだなと,文章化したものです.
しかしそこにも,全参加者がその意図(期待される効果)や進め方を理解しているか分からない,という点で,限界があります.
そこで別の観点で,検討してみたいと思います.一人が発表し,その後,基本的に一対一で討論する形態がとられていることの,意義です.

  • 聴講者に教員・学生の区別はありません.
  • モノを提案する人は,合わせて,自他の提案するモノの正当性を検証する人でなければなりません.

この2点には,「建前」という語句を添えておくべきでしょう.本当に教員・学生の区別をなくして実施するとどうなるか,というのはすでに書いたとおりです.後者を悪く運用すると,研究の途中段階(不完全な状態)にある,口頭発表に対して,ダメ出しばかりになりがちです.
これらの「建前」を学生に周知した上で,率先して良い発表・良いコメント/アドバイスをし,そして学生もそれができるよう,場をコントロールするのが,教員の仕事ではないかなと,考えるのです.
なお,「自他の提案するモノの正当性を検証する人」という考え方が,何に由来するのかなどは,別の機会に書くことにします.