わさっきhb

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遠山啓の名前を初めて見たのは

先週日曜日から,『遠山啓 エッセンス』を読み始めています.全7巻のうち最初の3巻を購入しました.

遠山啓エッセンス〈1〉数学教育の改革

遠山啓エッセンス〈1〉数学教育の改革

遠山啓エッセンス〈2〉水道方式

遠山啓エッセンス〈2〉水道方式

遠山啓エッセンス〈3〉量の理論

遠山啓エッセンス〈3〉量の理論

月曜日に第1巻を読み終えたのですが,その後はスローペースで,今は第3巻の途中です.分かりやすく抽象的に・2010年11月バージョンで作った図は,そういえば「ハッセ図」と言うんだったと,『束論におけるハーセの図式』(第2巻,p.2)を目にして思い出しました.あと,トランプ配りも何度か現れているのですが,いずれも,乗算の式というよりは,除算の包含除の説明のために用いられている*1のが,気になります.
それはそれとして,手元の本棚の,数学の読み物を何気なくめくっていると,名前が目に飛び込んできました(強調は引用者).

さて,そのカントルの定理であるが,その最初の証明は彼の実数論と関係していた.有名なのは,2度目の純集合論的な証明で,「実数論」とのかかわりという点では,最初の証明のほうが〈無限〉の発想ということで興味深いが,ここでの文脈から普通の対角論法の証明をあげておこう.対角論法というのをだれが最初に考えだしたのかよく知らないが,関数族の研究でカントルの時代によく使われていた方法である(略)
この証明は,背理法のインチキクササの典型で,なにやらだまされたような気がする.遠山啓さんが授業したところ,そのxを最初にして番号をつけ直したらいいじゃないか,という反論があったそうである.その新しい番号でもダメなのがまた作れてキリがなくなるのであるが,遠山さんは,「背理法で,最初の仮定を動かすのは将棋でマッタをするようなもんで,マッタをしないのが背理法の仮定だよ」と言ったそうである.「しかしキミ,本当のところはあの背理法はボクだって気持ち悪いんだがね」というのが,この話をしたときの遠山さんの陰の声,もっともそのときはだいぶんアルコールがはいっていたけれど.
(無限集合 (数学ワンポイント双書 4), pp.23-25)

上述の対角論法は,全称記号の使いどころ シーン2で書きましたいたことと重なります*2.ポイントになるのは2番目の強調箇所で語られており,あとは,背理法の仮定,すなわち番号付け(自然数からの全単射)を,自由変数のようにみなすか,全称化された束縛変数のようにみなすかの違いだと思います.さらに連想するのは,「任意に固定する」という言い回しですね*3
ところで,『この証明は』以降は,著者・森毅氏が遠山啓の名前を出したくて書いた逸話のように思えます.人物関係はこんな感じ.

そんなこんなの話題を今年,知り,考え直すことができたことを,興味深く思っています.例の論争はあっという間に下火になりましたが,もう少し検討して,ブログから切り離して何らかの形で文書化をしようと考えています.

*1:例えば『従来のように等分序と包含序をたがいに氷炭相容れないような別物と考えるのは正しくない.少なくとも分離量の段階では同じ過程を別の角度から眺めたものと考える柔軟な見方のほうがよい.// たとえば12枚の紙を3人に分けるという問題は,意味の上からは明らかに等分除であるが,1人1枚ずつトランプ配りの方法をとれば包含除とみなすこともできる.』(第2巻,p.177)

*2:同日朝7時台に追記:当該エントリを書いているときは,この本のことを思い出すことがありませんでした.例の論争の中で,そもそも自分はどんな本から数学的思考を学んだのかと考えながら,同書を手にとったのでした.

*3:http://www.fz.dis.titech.ac.jp/~murofusi/DST/fixed.html