わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

型・形

こうした形式的な文書というのは,苦手な人と得意な人とにはっきりと分かれがちです.形式的文書を苦手とする一つのタイプは,あまりにもクリエイティブすぎて,形式的なものに対して本能的に嫌悪感を持ってしまう人たちです.
(略)
形式的な文書を苦手とするもう一つのタイプは,そもそもこう言う形式を学んだことがない人たちです.特に新卒で就職したての若いビジネスパーソンは,なかなかこういう文書は書けません.これは学校で教わらないので当たり前と言えば当たり前なのですが,とはいえ,就職してから会社で誰かが教えてくれるかというと,そこまで面倒を見てくれない場合が大半のケースです.
では,どうやってこの形式を身につけるか.一番手っ取り早いのは,既成の形式を参考にしながら,既存のフォーマットを一度自分で作成し,後は必要に応じてそれぞれの項目を書き換えていくやり方です.(略)
フォーマットを作ることは,文書作りの作業を軽減化するだけでなく,仕事の中身の充実にもつながります.
(略)
私も当初は,事前に用意した型にはめ込むことばかり考えていては,クリエイティブな作業はできないと考えていました.だから,授業作りに際しても,「授業はドラマだ.生きもののようなものだ.最初から型にはめるとよくないはずだ」と思い込んでいたのですが,ある時,「生きものであればあるほどフォーマットがあったほうが,一定の落ち着きが出る」ということに気づいたのです.
なんらかの入れ物があったほうが,その中に「何を」「どうやって」入れればいいのかに集中できる.それは武道などにある「型の理論」を精神的な作業に応用するという発想でした.
(誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書), pp.66-69)

上記では,稟議書の文例を通じて,型の大切さを説いていますが…
研究室活動におけるフォーマットといえば,研究ミーティングごとの議事録です.Word形式で,学生に書かせています.
初回は,前の年度の議事録でよさそうな内容を例示します.あとは前の回に自分が書いたものをもとに,実施日時を書き換え,報告や今後の予定については,「報告」「今後の予定」という文字を除いて全面改訂となります.
学生が作成し,共用のSubversionリポジトリにコミットしたという連絡をしてくれれば,最低1回は教員側でチェックをします.初期のころは指示を与えて書き直してもらいますし,年度の終わりの今ごろは,要修正箇所も少なくなりますので,こちらで修正してコミットし,修正内容はコミットログに書いています.
修正を終えた議事録は,教員にとっては次回ミーティングの際に,どこまで今後の予定を進められたかをチェックする,重要な資料となります.学生にとっては,どの方面に注力し,期間までに何に優先して取り組めばいいかが分かる,羅針盤*1のような存在となります.
武道の型とはたぶん違うと思うのですが,柔道に,形というのがあります.初段になる際,二段・三段と上がっていく際に,昇段試合に勝って一定のポイントを得るほか,(段に応じた)形ができないといけません.
高校1年,2年と,秋に豊中大阪大学へ行くことがありました.阪大の招待試合として,阪大に入学させているという高校の柔道部が集まったのでした.その際,試合形式だけでなく,形の競技というのも実施していました.2年のときは記憶にありませんが,1年のとき,この形の競技に参加したことを思い出します.
自分の高校からは,私ともう一人の1年生でペアを組んだほか,2年生の先輩2人も出場していました.そしてその先輩方が,優勝しました.息が合うというのはこういうことを言うのかと,先輩方の所作を見ながら,ひたすら感動していました.
ちなみに私のところはというと,3位までに入れませんでした.帰りに同学年の誰だったかが「4位やな!」と,励ましにしては神妙な表現をとっていたのを,思い出します.

わたしの小学6年生のときのあだ名は「神永方式」でした.このあだ名をつけたのは担任の先生です.独自のやり方で算数の問題を解くのでつきました.独自の「すぐれた」やり方ではありません.だいたいうまくいかないのですが,とにかく自分で考えた方法で解きました.
(略)
神永方式は,わたしが大学に入って,塾のアルバイトで数学を教えるようになって,はじめて矯正されました.最初の授業を見ていた塾長が「神永くん,こんなヘンなやり方をしたら子どもたち,よくわかんないよ」と言うのです.標準的な解き方を学んだのはそこからです.
 
神永方式は,ときに問題をうまく解けないものでしたし,効率も悪かったかもしれません.入試を突破するというような場面では,マイナス面の方がずっと大きいでしょう.
しかし,これまでの方法で突破できない問題に立ち向かうとき,自力で考える力が役に立ちます.独自の考えで新しい定理を証明できることもあるくらいです.
はじめは,どんなに稚拙な考えでもいいのです.誰も答を知らない問題の突破口は,自力で考えることからしか生まれてきません.
非能率で,ときに稚拙でバカバカしい解き方をしたり,くだらないことを疑問に持つ子どもでも大丈夫.いや,もしかしたら,そんなちょっと変わった子どもたちが,未来を切り拓く存在になるかもしれません.
(食える数学, pp.226-228)

塾で,生徒の席(長机だったなあ)に座って,問題を解く側から,先生用の座席に替わって,生徒が問題に取り組む姿を見る側になって1か月くらいしたときのこと,塾長が部屋に入ってきまして,生徒も先生も解いてくれと,紙を持ってきました.

この「とんがっている」7箇所の角の和を求めなさいというものです.
生徒は,高校3年生3名です.早々と投げ出していました.高校の数学では,この種の問題は出そうにありませんからね.
スマートでなくても何か解き方があるかなと,その場でひねり出しました.具体的には,7点を正七角形として,線で結び,一つの角の大きさを求めれば,その7倍で答えが出せるだろうというものです.苦労して,授業時間内に解きました.後日,大学の友人に見せたら,補助線を引いたスマートな解法を教えてくれました.なんだけど,今,その補助線が見えてこないなあ.
例の論争の中で,トランプ配りを思いつくのは独創的か,上の引用を使うと,「未来を切り拓く存在」になれるかを検討することはできると思います.個人的な見解はというと,否定的です.ガウスが1から100までの足し算を効率良く求めたエピソードと同じで,最初にその求め方を言ったのなら画期的かもしれませんが,トランプ配りは---効率面で寄与しないのには目をつむるとして---,今や,少々Webで探せば,見つかります.家庭の中で,親もしくは年長の者が,ちょうどかけ算を学ぼうとしている子に,教える可能性も,無視できないでしょう.また算数・数学において,子どもが斬新な解き方を発明・発見したというのは,その子どもが偉人になったときの逸話として持ってくるのはいいのですが,発明・発見から,その子のポテンシャルを(幸運にも)見抜いた親なり教師なりが,その才能を今後,どう伸ばしていけばいいか---いわば算数の英才教育ですね---,まったく確立できていないなあとも感じています.
ちなみにabcdeのaの解法は,cを克服するためのものではなく,トランプ配りを含むcをリスペクトした上で,子どもに,“突き抜けた”世界があるのだというのを示すためのものです.

*1:この言葉に違和感を持った人へ:国語辞書で「方針」を引きましょう.