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大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

空中戦の東京,地上戦の大阪

学校にできること 一人称の教育社会学 (角川選書)

学校にできること 一人称の教育社会学 (角川選書)

これまでの著者の研究の集大成,あるいはガイドのように見えます.根・幹・葉の「学力の樹」を,学生に話したのは,もう4年前になります.
本文の中で一つ,面白かったのが,「東京と大阪の違い」です.

大阪に戻ってきて強く感じたのは、「学風」の違いであった。東京と大阪の違いといったら、言い過ぎかもしれない。あくまでも東京大学の教育学・社会学大阪大学のそれらとの違いというべきかもしれない。ともかく、私が感じたのは、「空中戦の東京」と「地上戦の大阪」とでも呼ぶべき、対照的な学問風土であった。東京では、どれだけ多くの最新の知識をいかに軽やかに扱えるかが競われていたように思う。それに対して大阪では、特定の理論に対して、どれだけ的確なデータを足で集めることができるかが問われていたように感じられる。
それと関連して、研究者の態度についても、対照的なものがあると感じた。ある時私はそれを、「知ったかぶり」と「知らんふり」という言葉で表現したことがある。東京では、「知らない」ことは恥である。そのために、特に若い院生たちは「知ったかぶり」をして、ボロを出さないことに懸命になる。それに対して大阪では、特に一家を成した研究者は、「知らんふり」をすることがある。わかっていても、知らないふりをするのである。「へえー、よくご存知ですな」ととぼけて、相手の実力を値踏みするのである。大阪では、「知ったかぶり」をすることの方が恥という感覚すらあるように思われる。大きな違いである。
(pp.100-101)

「教育学・社会学」の,おそらく論文の取りまとめ方や研究者間のコミュニケーションの違いであり,「特に若い院生たちは」「特に一家を成した研究者は」といった限定がなされていること,またそもそも著者の印象・主観であって,論理的あるいは統計的に,これらのことが言えるというわけではない点には,注意しないといけません.
とはいえこの並べ方のおかげで,大阪式の「足で集める」「知らんふりをする」に惹かれてしまいました.前者は研究をする上で*1,後者は学生と*2対話をする上で,必要となるからです.

*1:もちろん東京式の「多くの最新の知識をいかに軽やかに扱える」をするためには,足かどうかはともかくとして,絶えず最新の知識を頭に入れ,課題に応じて,使える情報の選定をすることになるのですが.

*2:うえの子とも.