わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

教える人も,成長する

小中学校の教師向けの本を3冊,読み終えました.そこで,先生方を取り巻く状況に思いをいたすとともに,自分の(教育に限らない)経験のいくつかと重ねてみました.

論議から協議へ

教師の言葉とコミュニケーション―教室の言葉から授業の質を高めるために (教職研修総合特集)

教師の言葉とコミュニケーション―教室の言葉から授業の質を高めるために (教職研修総合特集)

教師にとって自分の授業のすがたは自分自身そのものだという思いがある。自分という人間がその授業を形作っていると感じているからである。それだけにそのありのままを公開し,そのありようについて他者の意見を受けるということは自分が裸にされるような怖れを感じるのである。そこには,自分はどう評価されるのか,下手なことはできない,やるならよい授業をしなければという思いと不安感が存在する。だからいつの間にか二の足を踏んでしまうのである。これでは互いの成長を支えあう対話は生まれない。しかし,それをこのように後ろ向きに考えてしまう教師だけの問題にすることは絶対に避けなければならない。
(略)
こういう学校が第一にしなければならないのは,よい授業を公開しなければならないという固定観念を壊すことである。そのためには,教師の指導技術がこうあるべきだという論議ではなく,子どもの学びがどこでどうだったかを授業者とともに見つめる目線に立つことである。そうすることで,それがどんな授業であろうと,授業をした教師の「いま」に寄り添い,ともに考え合う協議にすることができる。そうなったとき,やってよかったという思いが授業者に芽生える。
(p.167)

執筆者は明示されていませんが,前頁ヘッダの「スーパーバイザー」と執筆者一覧から,深沢幹彦氏と思われます.
上の文章には,直接書かれていること,行間から読み取ったことを含め,いくつか対比がなされているように思います.取り出してみました:

  • 「よく見せる」ではなく「ありのままを見せる」
  • 「授業をした教師だけ」ではなく「公開授業に立ち会ったみんな」の問題(issue)
  • 「何を教えたか」ではなく「何を学んだか」
  • そして,「論議」ではなく「協議」

その次のページ以降で,小学校1年生の算数の公開授業で,ある問題に対して「7−6=4」と考えた子についての検討があります.そのエピソードは,Webページや本を,ともすればケチをつけるためと読んでいることもある自分にとって,対話があってこそ場が進むのだなあという思いを強くしました.
この本に対する,Amazonカスタマーレビューの中に,学校教育の意義について再認識させられたものがありました.

教育には「こうすれば、子どもは必ず伸びる」という全国共通の法則があると信じる人々がいる。しかし、問題を解く力をつけるのなら、学校よりも塾の講師の方がよっぽど上手だろう。それでは、学校の教師とは一体何なのか。(略)人との小さなコミュニケーションの積み重ねが、人格を形成していく。それが、教室という場なんだということを教えてくれる一冊。

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上の文章から,「学校でしかコミュニケーションをしていない(塾はコミュニケーションをしていない)」と読むのは,誤読というもので,ここは「学校の教室ならではの,コミュニケーションの仕方がある」なのでしょう.そして,塾と学校で求められることの違いを,確かめたくなってきました.学生時代の塾講師の経験は,もはや役に立ちません.本なのですが,書店の教育書の棚にいいのがあるのかな….
小学校の教育と,大学の教育も,いろいろ違う点はあります.さて自分は今まで,教育について何を書いてきたんだっけ….

教師の成長過程

よい教師をすべての教室へ―専門職としての教師に必須の知識とその習得

よい教師をすべての教室へ―専門職としての教師に必須の知識とその習得

この本の訳者の一人は,前の本の編者です.本文の途中に一つ網掛け(pp.28-31)で,英語学習についての事例が入っていますが,基本的には特定の科目ということではなく,教師向けの解説書となっています.
「教師はどのように発達し,学ぶか」から,連続する2つの段落を,抜き出します.

教師はまた,指導の「新米」から「熟達者」の思考のしかたへと進歩していく。教室の生活の多くの面を取り扱うことができるようになり,生徒の知的な活動に目を向けられるように成長する。熟達した教師は,他の分野の熟達者と同じように,複雑な状況を瞬時に分析できるようになり,その状況にいかに応じたらよいかについての多くの知識源を持つようになる。そして目標を達成するために使うことができる,より広範かつ柔軟な技能のレパートリーも持っている。指導のしかたを分析し,いつどのような方略が役立つかについての知識と指導方略のレパートリーを広げていくことができる能力を発達させる教師教育が,新任教師がより早く熟達者となっていくのを助けるのである。
また教師は,教師であるとは何を意味しているのかについての考え方も発達させていく。なかでも,学習が最初うまくいっていない生徒を成功へと導く方略を求め続ける姿勢である。専門家であるとは,単に「いろいろなことの答えを知っている」ことではなく,加えて,自分の実践を評価し,教室のレベルと学校のレベルの両方で必要とされる技能と意志を持つということである。生徒が学習していないというような問題状況において何が起こっているのかを診断でき,その問題に取り組むための他の資源や知識を探求できるように,教員養成教育が援助することが,このきわめて重要な姿勢の発達を助けるのである。
(pp.47-48)

最後の文に「教員養成教育」とあるとおり,教師の能力向上を,学校内だけでなく外部からも支援することが,背景にあります.
知識を与えれば子どもはそこから学んでくれる,と考えがちなところ,「生徒が学習していないというような問題状況において何が起こっているのかを診断でき」のくだりには軽い衝撃を受けました.
仕事を離れても,新米から熟達者への道のりが私にはあります.一つは,田畑のことです*1.結婚して,言われるままに駆り出され,柿や柑橘類の収穫に関わりました.次の年から,田植え稲刈りその周辺のことで,休日が取られました.収穫ではコンバインに乗り,袋詰めしたものを運搬車に乗せてのそのそ動かし,刈り取られた田んぼの上では,藁のくくり方を教わりました.1年目は,その作業の全貌が見えていませんでした.
視野の広さでは妻の父に,手際の良さでは同じく母に,一生かなわないのかもしれません.しかし,父母を超えることが目標であってはいけませんね.技術や運営についてこれからも学び,それと別に自習し,成長する娘たちにも手伝ってもらい,引き継ぎながら時代と力量に合った「野良仕事」ができるようになりたいものです.
田んぼと畑について:

教育の話はどこへ行った? えっと…研究室運営と,授業には,違いがあります.一番大きいのは,学生が誤解をしているときの対処でしょう.研究室ではそれがときには,研究の進め方に影響するので,教員がすぐに気づいて指導をします.授業においては,テストで採点していてそれが発覚するということさえあります.1対多,その「多」は多様であることを心に留め,誤解のされにくい話し方や,内容の準備,また小テストや演習課題を通じた理解度確認が,必要になるでしょう.
今の勤務校での教育歴を,振り返ってみます.NAISTから(国立大から国立大の)「配置換」で着任しました.教授の指導を受けつつ研究室運営に携わり,演習授業を1科目,教授・助教授(今は教授)と分担して実施しました.講師になってからは,100%担当の講義で試行錯誤の繰り返しです.分担授業も研究室運営も,大小の変化を経て,現在に至ります.
これからも激動していきそうです.そのときに,「自分は結局,何をしたいのか」「学生にはこの場で,何を学んでほしいのか」の2点を,思い出せるようにしないといけません.ということで,ここに書き残します.

「授業」という制約の中で

実践!学校教育入門―小中学校の教育を考える

実践!学校教育入門―小中学校の教育を考える

現在の制度では、少人数や習熟度別の指導が取り入れられているものの、いぜんとして40人近い人数で授業をしている現実があります。また指導内容も指導時間も決まっていますから、その枠の中で、全員に分かる授業をしていくことが求められています。どうしても一斉授業にならざるを得ませんが、そのなかで個別指導や班学習を行いながら、一人の取りこぼしもないように努めているのが現実です。教師として「無理だ」とか「出来ない」などの消極的で否定的な言葉は出せない実態はありますが、そうした状況のなかでも分かる授業を進めることが必要です。
分かる授業とは、児童生徒にとってよい授業という意味です。教師は計画を立てて授業に望みます。授業研究のときには、一定の指導案を授業参観者に提示します。普段の授業では、そうしたことはしていませんが、形式にとらわれない自分流の指導計画と授業に関わるメモを準備しています。慣れた人は、その日の授業内容が頭の中で指導案として収まっています。どういう発問をしようか、誰に当てようか、どういう質問が出るだろうか、教材や教具は何を使おうかなど、授業の一連の流れが形として頭に入っているのです。教師が最初に思い描いた授業ができ、児童生徒の反応も良かったと自身が感じても(実際にはそう思える授業は少ないのですが)、それは教師からの見方・考え方なのです。授業を受けている児童生徒の反応や理解は、教師が一番膚で感じているものです。児童生徒の授業中の反応をみて、よかったと思える授業をしたのなら、それは児童生徒がある程度は理解できて満足していると考えられます。
(略)
そして、児童生徒がその時間を本当に楽しく感じ、教師が話した内容が覚えられて理解ができ、自らが納得できる授業が分かるよい授業と言えるのです。こうしたことは一挙にできることでありません。教師が自分の授業を常に反省して改善していく以外に方法はありません。そのためには、基礎基本は繰り返して教えなければなりません。そして児童生徒が自ら課題を設定し、自ら学び、自ら考え、自ら判断し自分の課題を解決していける能力と技能を習得させることは重要なことです。
(pp.31-32)

ここまで書き出してみて,連想したのは:

内容は,前の2つの本と,大きく異なるわけではありません.言い換えると,これだけ読めばまあ,著者・専門家の経験を踏まえた,教育の現状や,現場の先生方へのメッセージの輪郭を知ることができた,といったところです.
なのですが上のくだりには,「現在の制度では」から始まり,いくつか制約条件が課されています.また,誰もがイメージできる伝統的な授業スタイル,すなわち「一斉授業」のほかに,「個別指導や班学習」という手法も挙げています.
これらが何かというと,授業にも工学的アプローチが適用可能であるということです.制約条件を満たしつつ,コストパフォーマンスが最適なものを追求するわけです.
ただし方程式や不等式を立てて解けばよい,毎回毎回評価実験をしてその中から仮説に合ったものを見つけよう,というわけにはいきません.先人の知恵,身近な人のアドバイス,そして自分の信念を土台として,よく言えば創意工夫,悪くいえば現場の苦悩を続けていくことが,「分かる授業」「能力と技能を習得」のためには不可欠なのでしょう.

*1:「新米」と書かれていなかったら,思い出さなかったかもしれませんが.