わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じない事

昨日の朝9時から今朝の9時まで,さきの子・あとの子の付き添いをしていました.
30分ほどで,新書を1冊,読み終えました.

仕事をしたつもり (星海社新書)

仕事をしたつもり (星海社新書)

1枚のCDを「聞き流す」のと同じように,「読み流す」ことのできた本でした.書評は,【書評】『仕事をしたつもり』(海老原嗣生) – R-styleが分かりやすいと思います.
気になったのは,この部分.

実は、「疑う精度を高める」ことはそれほどむずかしい行為ではないのですが、これがうまくできない人が実に多い。
その原因は、学校教育のあり方にあるのではないでしょうか。
学校の授業では、理科の時間に社会の知識を使って問題を解く、ということはしません。あくまでも理科は理科だけで、他の科目などとは関係なく出題されます。
しかも、その理科でも、以前に学んだ単元やこれから学だろう領域については触れられず、今、目の前に与えられた試験範囲のみで答えを考える――そう、まるで科目と領域で「賽の目切り」されたような頭の構造を強いられてきたのです。
だから、「まったく関係のない知識や経験を用いて目の前の話の真偽を確かめる力」が、ことのほか弱くなってしまっているのではないでしょうか。
会社や仕事にはびこる風聞・風説の類いを「精度高く疑う」こと。
「仕事をしたつもり」から脱却するために、まずは「考える」ための最初の手順である」疑う」ことから初めてみてはいかがでしょうか?
(pp.124-125.引用にあたりルビ・空行・強調表示は取り除いた.)

これは,次の法則に当てはまる実例が加わった,と考えています.

  • 「Xの原因はYである」と主張する者は,Yに対して責任を負わない.

法則といっても,個人的な経験則です.もう少し言葉を増やすなら,「文章を批判的に読む際の注意点」といったところでしょうか*1
もし,少しでも責任を感じているだとか,自分なりに何か協力したいのなら,

  • 「Xの原因はYである」

  • 「Xの原因はYである,と考えている」
  • 「Xの原因はYにあるのではないだろうか」

などではなく,

  • 「Xを実現するにあたり,Yに改善の余地があるのではないかと考えている」
  • 「Xのためには,Yに解決の糸口がありそうである」

と書くべきでしょう.
これらはすべて同じこと,レトリックに過ぎないよ…と思われるのも本意でないので,追加しておきますと,「Xの原因はYである」という主張を見た時点で,「Xの原因には,Yの他にもっといろいろあるはず」「その中からあえてYだけを選んだんだな」と読み取るべきでしょう.複数ある要因の中から,一つだけを選んで提示している段階で,レトリックが活用されているわけなのです.
そうそう,「疑う精度を高める」ようにするには,「疑う」のに適した,多種多様な題材を用意することが良いように感じています.そしてそうすると,学校教育の外の人々も関与できることになります.理科や社会といった科目は,いったん無視です.
そしてそのもとで,各題材を見比べ,どの科目や状況,どんな既習状況のもとで(何歳のころに)与えればいいのかといった議論を,進めていくわけです.
数は多くなくてもかまいませんので,「ある言説を疑ってみたが,実はその言説は妥当なものだった」というケースも,確保していきたいものです.

タイトルは?

「疑う」という言葉で真っ先に連想する,替え歌です.オリジナルは,大事MANブラザーズバンドそれが大事です.「信じる/疑う」で言うと,それが大事:歌詞の「それ」とは何を指すのかもおすすめです.
妻の前で,この替え歌を歌うと,「信じなさい!」とツッコミがきます.また過去にも,飲み会のネタで書いています.

*1:「攻撃は最大の防御」の言い換えであるようにも見えます.実際たとえば,「いやそんなことはない.こんな授業例があります」と反論してみても,それは日本全体で普及しているわけではない,もし仮に普及しているとしても,そんな授業や教育の仕方では,現実として,「疑う精度を高める」ことができていない,などと返されておしまいです.