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大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

日本の問題解決型授業は,1980年には定着していた

子どもは数をどのように理解しているのか―数えることから分数まで (子どものこころ)

子どもは数をどのように理解しているのか―数えることから分数まで (子どものこころ)

■文化による違い
日常生活の中からかなりの知識や技能が獲得されているのであれば、文化が違えば学ぶことにもそれなりの差があるだろうか。最近になって、アメリカは日本の教育に多大の関心を寄せはじめている。そのきっかけとなったのは、日本、アメリカなどを含んだ十数カ国にわたる算数・数学と理科の成績に関する国際調査であった。この研究では、日本がほとんどの学年でトップの成績を占めていたのである。ただ、この研究では、成績の比較をしているだけで、なぜそうした差が現れるのかに関するデータはない。
この国際比較に刺激されて、なぜそうした差があるのかをアメリカの心理学者、スティーブンソンとスティグラーを中心としたグループが、日本、アメリカ、台湾の子どもの算数の成績、教師の指導行動などについて大規模な研究を行なった。彼らは、アメリカではミネアポリス、日本では仙台、台湾では台北の各都市を選び、それぞれの都市の小学校10校ずつの児童を対象として、さまざまな比較を行った。
この研究で得られた結果(1986)は、多くのアメリカ人を震撼させたようである。アメリカのかなりのマスコミが新聞などにこの結果を引用して、アメリカの教育に警鐘を鳴らした。
(p.136)

「この研究で得られた結果(1986)」とは次の文献です.スティグラーは,『The Teaching Gap: Best Ideas from the World's Teachers for Improving Education in the Classroom』の著者の一人と思ってよさそうです.

  • Stevenson, H.W., Lee, S. and Stigler, J.W. (1986). Mathematics Achievement of Chinese, Japanese, and American Children, Science, Vol.231, No.4739, pp.693-699.

この論文によると,小学校の調査は1980年に実施し,追跡調査は1年生が5年生になるときということで1984年に,そしてその年に幼稚園の調査も実施しています.
ただ,英文は読み切れていません.冒頭の本から,日米間の違いを取り出します.

  • 成績.ミネアポリスの最高クラスは日本の最低クラスよりも平均点が低かった.概念的な思考を要求するところでも,アメリカ<日本だった.
  • 教育システム.授業日数は日本240日,アメリカ174日(土曜休み).学校あたり平均生徒数(日本1020人,アメリカ753人),1クラスの児童数(日本39人,アメリカ23人),など.
  • 教室での教師の指導.
    • アメリカでは,先生がはじめに意味と計算手続きを説明し,次に子どもに黒板で同様の問題を解かせる.何人かにさせると,プリントで各生徒が問題を解く.できた子は先生に見てもらう.優秀な教師ほど,1時間の中でたくさんの問題を子どもたちに解かせる.
    • 日本では1時間の授業中に1〜2個の問題を使って,その解決をいろいろな角度から子どもたちに考えさせる.生徒と教師,生徒同士の相互作用がとても多い.
  • 幼稚園児.算数の能力は幼稚園児の年代から差が見られた.

日本も土曜が休みになりましたし,1クラスの児童数が減少傾向にあるなど,システム面ではいくらか変化がありましたが,少し古いものから,最近の刊行物まで,算数教育の本を目にしている限り,日本の授業のスタイルは,この調査のころから大差ないように感じます.
「■文化による違い」の結語であり,この章(4章 日常生活からの知識と学校教育との接点)の終わりとなるところも,書き出しました.

このようにみてくると、不思議なことに気がつく。それは、アメリカと日本における日常生活と学校教育における考え方の差に関してである。アメリカ人の日常生活では、彼らは他者に「なぜ?」とか「どうして?」という質問をよく浴びせる。この問いかけは、自分がしたことを概念的にまとめて理解することを要求している質問である。この意味では、アメリカは、どちらかといえば概念的理解を志向した社会であるといえよう。
ところが、日本ではあまりそうした質問を他者に発しない。むしろ、「どのようにすればよいか」という手続きについての問いかけのほうが、圧倒的に多く聞かれる質問である。わが国では、理解を基礎にある概念的な理解については、以心伝心などのことばに代表されるように、言われなくてもわかっているという前提があるようだ。この意味からすれば、日本は、どちらかといえば、手続き的な理解を志向した社会であるといえるのではないだろうか。
日常生活のレベルでは、こうした違いがみられるのに対して、一歩学校の中に足を踏み入れると、その関係が逆転しているのである。つまり、日本の学校では多くの教師がどのようにするかという手続きよりも、教材の本質がわかるということを重要だとみなし、実際そうした考えに即した指導が展開されている。ところが、アメリカの学校では、教材の本質というよりもどのようにすればその問題を解くことができるかという側面に重点がおかれ、日常の指導もそうした方向にそったものになっている。なぜこうした逆転した関係がみられるかについては、さまざまな要因が関連していると思われる。これについてわれわれは明確な答えを用意しているわけではないので、今後の解決すべき課題の一つであると思っている
(pp.140-141)

20年少し前に示された「今後の解決すべき課題の一つ」について,その後,答えとなるような出たのかというと,思い浮かびません.
仮説として,子どもたちが問題解決型の授業を,当然のものとみなして授業に参加しているのではないか,というのを立てることにします*1.基本45分の授業で,1つまたは少数の問題に取り組むこと,コアとなる出題に対して,さまざまな反応(式などの案)が起こること,それぞれの理由や意味を本人または他の子どもが説明し,クラス内で共有すること,そして「練り上げ」を通じて今後,この種の出題にどうすればいいかをまとめること,あたりがその主要なところでしょうか.
とはいっても,子どもたちはそういう型があることを,必ずしも認識しているわけではありません.良いタイミングで良い問題を提示し,授業に引き込むことが教師の力量であり,そのためには,児童・教師の信頼関係が不可欠ですし,授業計画も大事になってくるのでしょう.
授業計画を立てるためには,例えば単元の各回の授業で何を取り上げるかという観点もありますし,学年を超えて,既習事項だとか,「本時」の結果がどこで活用されるかといった面での,相互作用への配慮もすることになりそうです.
「かけ算の順序論争」との関連でいえば,各学年・各領域(数と計算,量と測定,図形,数量関係)・各単元で期待される学習事項をきちんと理解し,授業計画を立て実施したり(もしくは若手の先生の指導をしたり)する先生の中で,「かけ算には順序がない」という考えをお持ちの方がいるのかどうか,などと考えたりします.


問題解決型の授業や,日米間の授業比較に関して,知っていることを時系列でまとめておきます:

(最終更新:2013-03-14 深夜)

*1:「大学生が講義中に割り込まないのはなぜか」「しかし社会人学生を対象とした小人数授業(ゼミではなく)では頻繁に割り込みが入るのはなぜか」といった個人的経験に基づく疑問も,「それぞれの授業で,参加者にとって,暗黙の了解となっているものがある」と考えることで,納得がいきます.