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「なぜ心神喪失者を許せないのか」を読んで

はてブはざっと目を通しました.Yahoo!ニュースについたコメントは,件数だけ見て,中身は読めていません.
それぞれの著者そして意図に共感しつつ,この内容では,ツッコミの余地がいろんなところにあるぞと感じました.以下,「なぜ心神喪失者を許せないのか」の本文に焦点を当て,いくつか取り上げます.
理由を挙げていく前に書かれた,「心神喪失者を罰せずに許すのは、私たち本来の自然な発想なのかもしれません」は,共感しにくいところです.「殿、ご乱心」の例も,時代劇(フィクション)である上に,それは刑罰とは別の文脈・意図で発せられているわけです.
語句で気になったのは,「私たち」です.ブラウザで検索してみると,記事中に6回出現します.理由の列挙では6番目まで見当たらず,「7 公正さへの思い」の直後に,復活したかのように現れます.書き手と読み手の間に信頼関係ができていないときの「私たち」の使用は,逆効果に映るのです.
それから,字数の制約もあったのでしょうが,「心神喪失者を許せない理由」として書かれている項目のいくつかには,その理由への反論が入っています.これもまた,共感を疎外します.「4 治安悪化への不安」にある,「ただ、重罪を犯して心神喪失で無罪になる人はほんのわずかです。」について,早いタイミングの反論に見えるのに加えて,再犯で無罪になる可能性よりも,再犯を犯す可能性を考慮すべきではないかとも思います.
ここまで,細かいあら探しでしたが,全体としては同意なのです.2本の記事に書かれていないことを,自分なりに想起したからです.
例えば,「法律で罰することができない危険な人物が野放しにされることへの不安もあるでしょう」を読んだとき,多くの読者は,その「危険な人物」に自身を入れず,距離を---犯罪行為からも---置くと思われます.人によっては,安全なところから文句をつけ,それがコメントとなって残ります.
ですが私自身は,「危険な人物」が自分や家族,知り合いに近いところに来るかもしれないこと,そして「危険な人物」になってしまう可能性にも,思いを致すのです.
まだ加害にせよ被害にせよ,警察や裁判所のお世話になった経験はありませんが*1,先日ある遊具施設内で,フラフープで遊んでいる子に,うえの子がよそ見をしていてぶつかり,ごめんと言えなかったのを,もどかしく思っています.というのはあまりにも個人的な話で…
社会において,将来の不確かさを検討するには,情報セキュリティを通じて学んだ,リスクの考え方が,いくらか有用となりそうです.


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*1:交通違反は何度かあります.学生時代,サイドミラーに「ワッパ」がかけられ,そこに書かれた警察署へ行ったら,あちらも手続きが分からなかったのか電話をかけ,そこで「出頭」と言っていたのを,思い出します.