わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

測っているものに教育的価値があるか

 書店で目にし,ぱらぱら見てから,購入しました.
 今の自分の問題意識にもっとも関係しそうなところを,書き出しました(pp.182-184).

「規範的妥当性」の軽視
 今、教育の応答性は危機にさらされている。経済的な観点から教育の価値をとらえ、ペーパーテストで測定可能な学力を重視し、容易には測定できない価値や子どもの個性をみることが難しくなっているせいである。
 教育成果の測定に関しては、教育哲学者のガート・ビースタが興味深い議論をしている(ビースタ 二〇一六)。ビースタは「教育的成果は測定されうるしされるべきだという考え」には二つの問題があるという。一つ目は、何が教育的に望ましいかは測定された事実そのものからは判断できないことである。二つ目は、測っているものに教育的価値があるかという「規範的妥当性」の問いが、測りたいものを測れているかという「技術的妥当性」の問いと混同されているいることである。
 「規範的妥当性」と「技術的妥当性」はどちらも大事である。だが、「技術的妥当性」ばかりが重視されると、単に測りやすいものを測っているだけなのに測っているものに価値があると思い込んだり、測れないものの価値に目が向きにくくなったりする。
 第5章で説明した評点の調整作業を思い出してほしい。チャレンジテストによる評価システムは「技術的妥当性」という点からみれば問題はない。しかし「規範的妥当性」という点から見れば大いに問題がある。「コツコツと真面目にがんばる」とか「芸術的なセンスがある」といったペーパーテストで測定できないことがらの評価は無視されたり歪められたりしているのだから。
 白状してしまうが、これと近いことを私もやってきた。実証的な社会学や心理学には「操作的定義」という考え方がある。これは測定の方法や手続き(操作)でもって、ある事物を定義するという考え方である。
 例えば、学力テストで測定されたものを学力を見なそうというのが操作的定義の考え方である。操作的定義を使うことで「学力とは何か」というなかなか答えが出せない問いを避けられる。第3章で紹介した「効果のある学校」の研究もこの考え方にもとづいている。私達は格差の是正を最重要視している点で、今の教育改革とは一線を画している。また、学校での観察や聞き取りを通じてテストで測定できない教育の成果に迫ろうともしてきた。だが、やはり、測定の「規範的妥当性」に正面から向き合ってきたとはいえない。

 「ビースタ 二〇一六」については,参考文献の情報をもとにAmazonで見つけました.
 最初の文の「応答性」は,今回取り上げた章(第7章 新自由主義的教育改革に対抗するために)のはじめに(p.182),「子どもの権利保障」と合わせて著者は「鍵となる概念」として挙げています.読み進めていき,p.186に「ここまで考えてきた教育の応答性とは、子どもの現実に合わせて教師が教育を変えていくことだともいえる。」と述べています.教育改革に合わせて教師が教育を変えることではない,と理解しました.