本題は算数教育,より具体的には「かけ算の順序」の件なのですが,思うことあって自分の研究分野から話を進めます.
先日,勤務先に薄緑色の封筒が届きました.中には,Abhinavatripiṭaka(アビナヴァトリピタカ)と題するニュースレターの創刊号が入っていました.全面カラーです.科研費が採択され*1,その計画の概要や,今年度に実施した講演会の報告などが,イラスト・写真つきで載っています.研究代表者の方とは,面識がないのですが,最終面の連携研究者・スタッフを見ると,これまでお世話になった方の名前がありました.
漢訳仏典など,歴史資料を対象としたデータベースやテキスト化支援などの研究に取り組んで,ずいぶんな年月が経ちました.学生には卒業論文や修士論文としてまとめ上げてもらうとともに,私自身も大正新脩大蔵経のことをTaisho Tripitaka*2と書いて投稿し,国際会議で発表する機会を得たのでした.
今回のニュースレター受領を機に,歴史のつながり,そして最先端の研究のつながりを大事にし,指導している学生には良い情報源を提示しながら,研究室内の知的資産を活かして新たなアウトプットをしていきたいと,思ったのでした.
しかしながら私は,「仏教学」や「システム構築」の専門家では,ありません.いわゆる“情報寄り”のところに身を置き---実際,会員になっている学会は情報関連ばかりです---,取り組んで得た成果と,学会スケジュールをもとに,適切なところを選んで発表してきました.
何も知らないとは,もちろん,思っていません.仏教の研究のこと,あるいはシステム開発のことで,専門家は誰なのかと聞かれたときに,名前や情報源を挙げるなど,適切な対応をすることが求められている,という認識も持っています.ここでいう専門家は,学内で「この先生が一番よくご存知」という意味だったり,国内の第一人者だったりします(すみませんが,海外で,その分野を世界的に牽引する人は,紹介できそうにありません…).
ここから算数教育に話を移すことにして,私自身は,個人的興味で本や論文を読み,いくつかの観点で情報整理をし(直近だと例えば,かけ算の順序,文章題,算数・数学教育の情報源),授業で取り上げることもありましたが*3,算数教育の専門家ではないですし,その道に進みたいというわけでもありません.
また,算数教育の専門家を紹介できるのかというと,本当に必要となれば教育学部の先生にコンタクトをとることになるのかもしれないけれど,幸いにも,これまでそういった問い合わせはありません.
算数教育(おそらく教科教育に広げられると思いますが)の専門家かどうかを把握するには,本人が専門分野として明記しているほか,教職経験も見ておくのがよさそうです*4.学会発表では,膨大な文献・資料を読み込んでそこから新たな知見を得るというよりは,1つでもいいのでタネ,すなわちある情報源より得た着想をもとに,授業を計画して実施し,学習者の反応や答案を定性的・定量的に評価するスタイルが主流と言っていいでしょう.加えて大学教員は,そのポジションを問わず,地域の学校・教師のアドバイザを務めることにもなるはずです.
著書については,単著もありでしょうが,編著が多くみられます.編集者は,書いてもらうだけの人材を集めて取りまとめることが,書かれた内容と別に重要視されているかのようです.また分担執筆者は,本に自分の名前が載ることだけでなく,「偉い先生」から書くよう薦められることが,栄誉であり,アウトプットを出すモチベーションにつながっているのかもしれません*5.
教科書の単著は考えられず,どの出版社も,1教科につき数十人の教師(校長のことも)や大学教員を交えて作られているのが,各社の編集者一覧から見て取れます.どこを誰が書いたかが明示されない代わりに,それぞれが持ち寄る教育観や成果のぶつかり合いを経て,検定用の教科書を完成させているのでしょう.そして,各学年の教科書が刷り上がったら終了,ではありません.検定後の修正意見に対して誠実に対応して検定をパスし,その後,多くの自治体や学校に採択されるよう,アピールしていくことにもなっていきます.
先日,ブログ内で不用意に書いた「専門家」が,かけ算順序強制問題の第一人者の目に留まってしまいました.
取り上げた箇所の執筆者は,教師経験を経て大学教授となっていること,算数教育の編著や算数教科書の執筆者・編集者であることから,面識はないものの,算数教育の専門家であると理解しています.
第一人者と書かせてもらった方が,この執筆者と同等であるとは,実のところ思っていません.算数教育を専門とするだけの成果・業績・活動が十分にない,というよりはむしろ,この方の公表物から伺い知ることのできる,現状認識から,とうてい信頼できないと考えられるのです.
そう判断するに至った,Web上での公表物の一つに以下があります.*6
- 黒木玄: 算数の教科書とその指導書の問題点, http://genkuroki.web.fc2.com/sansu/ (2015年11月30日参照).
通して読み直して,今でも引っかかるのは,教科書検定のスケジュールが考慮されていない点です.
検定・採択の周期はhttp://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/gaiyou/04060901/__icsFiles/afieldfile/2015/06/15/1235087_01.pdf(デッドリンク)に載っていまして,それによると,2013年1月(2012年度)は,翌年度の検定に向け,教科書の編集が大詰めを迎えている段階と推測できます.
あるいは,今年度より学校で使用されている教科書や,それに応じて改訂されたはずの教師用指導書について,当該ページとの照合を行い,どこが変更されどこは前回と変わらないのか,(ご本人でなくとも)整理がなされていれば,算数教育の「外」からの活動として役に立つと思われますが,そのような気配もありません.
第一人者のクオリティを知る機会となった,もう一つ公表物に移ります.
- 黒木玄: かけ算の順序強制問題, 季刊理科の探検, 2014 秋号(10月号), 文理, pp.112-115 (2014). [asin:B00MBUXKYA]
知る限り,全文が公開されているところはありませんので,お持ちでない方は,Kindle版を購入するか,図書館や科学関係の施設でご確認ください.「クオリティ」と書きましたが,今回取り上げた分を含め,当該誌には「特別寄稿」が3つ,掲載されています.それらを読み比べれば,クオリティの差は歴然としています.
1文だけ,引用します(p.113).「私は算数教育を当てにしていませんよ」と紙上で主張していると,思わずにはいられなかったのでした.
「かけ算の意味を理解していない」はかけ算の順序強制における最重要の要注意定番キーフレーズである。
ネット受けするのかもしれないし,あるいはネットの反応をもとに,ご自身のもっとも伝わるメッセージを書かれたかったのかもしれませんが,この1文だけでなく,書かれた4ページを読んで,これからの算数教育を変えるのはこの人・この主張だとか,もっと詳しく教えてほしいだとかいう人は,ちょっと想像できません.ネットde真実です.
「かけ算」を,あるいは「かけ算の順序」を,起点として,実情を学ぶには,一つ一つ,情報を読んでいくしかないのかなと思っています.例えば,上記引用の数行前には「構造」という言葉が見られますが,かけ算の話で構造といったとき,Vergnaudを無視するわけにいきません.日本に限るなら,挙げるべき人物名は中島健三でしょう.1965年の座談会で「乗法・除法の適用の場を構造として捉えると,あのような形にまとめられる」と言った*7ほか,今年復刻された本で「かけ算の本質(構造)」が提示されています*8.これらもまた,算数の指導に関する歴史的・国際的なつながりを知る機会となったのでした.
「算数の教科書とその指導書の問題点」「かけ算の順序強制問題」について,個別には以下のところで整理してきましたので気になる方はどうぞ.
- http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130106/1357419376
- http://www49.atwiki.jp/learnfromx/pages/122.html
- 順序の強制か,意味の理解か - かけ算の順序の昔話
(最終更新:2021-07-29)
*1:https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15H05725/
*2:wikipedia:en:Tripitaka, wikipedia:en:Taisho_Tripitaka.それぞれサイドバーには「日本語」のリンクもあります.
*3:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20101225/1293224299 http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20150611/1433970674
*4:ただし,長く学問としての数学に携わっていた,すなわち数学者が,算数・数学教育にも手を広げるというのも見られます.http://hdl.handle.net/2433/140889より読める文献は今なおお勧めです.
*5:科研費の研究代表者・共同研究者・連携研究者も,類似した関係となっています.
*6:本記事リリース時には,Toggeterまとめに関するはてなブックマーク(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/901635,https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/903063)の「関連エントリー」にありました.これが,それぞれの元ページ(Togetterまとめ)に最も関係するエントリーとなるよう,改善を図るのは,言語処理や内容理解を含み,情報処理分野でひょっとしたら面白いテーマになるのかもしれませんが,これまでの掛算関連記事を読んで(あるいは学生に読ませて)土台を作るのは苦痛でしかなく,アウトプットも不明瞭で,手を出せません.
*7:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140610/1402399854をご覧ください.なお,3用法という言い方はされないものの,1つのかけ算に2つのわり算として分類し,整理した表を,GreerおよびCore Standardで見ることができます.http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20131226/1387983600 http://www.corestandards.org/assets/CCSSI_Math%20Standards.pdf#page=89
*8:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20150720/1437344285.その本質(構造)は,『小学校学習指導要領解説 算数編』の第5学年のところにも書かれていますし,[isbn:9784863590816]より引用した中の「aとbの意味づけが重要である」とも対応しています.