わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

表現者へ

数日前にはてなアンテナに入れたブログで,はてブ数が千を超えたエントリです.
読んですぐ,「このエントリだけで良否を判断してはいけない」と直感し,いくつかのブクマコメやトラバを読んでいると,連想できるものがいくつかあることに気づき,やっと,自分もはてブをつけました.
この学生さんに共通点を持つ振る舞いをする人が,漫画の中にあったのでした.

「優等生のユーウツ」のエピソードで,奥付によると,これは単行本の5巻にも収録されているとのことです.
大森君という,抜群の記憶力のおかげでトップクラスの成績を持つ学生.柳沢教授の講義で,「君の意見を聞きたい」に対して「教授がおっしゃった以上のことは本当に考えつかないのです」と,意見が出ません.
教授室に呼び出され,面談で,自分が意見を持たないこと,そしてそんな状態で社会へ出ることへの不安を打ち明けます*1.柳沢教授の質問に答えていきながら,三島由紀夫についての自分の意見を絞り出します.
表現者」になった瞬間です.
そして教授のアドバイス

自分自身の言葉があって 初めて 他人と知り合うことができる
他人と コミュニケーションできる
新しい発見ができる
そして また 言葉が生まれる
それらによって 君の知識は
初めて 意味のあるものに なるのではないかね
(p.49)

セリフを全部書きたいくらいの名作なのですが,まあ引用はこのくらいにしておきます.
とはいえ,元エントリへの直接的な感想を残しておきます.正解・不正解のほかに,妥当解や,傷のある解というのもあるはずです.いくつかは想定でき,いくつかは実際に表現してはじめて,本人または他人が,その正否あるいは妥当性を検証できるものです.卒業研究は,どこに妥当解を置き,そこを目指して卒業論文完成までどこまで努力できる/したかを,本人と指導教員が確認する作業です.また卒論だけでなく査読付き学術論文でも,傷のない論文というのは皆無で,見つけた(あるいはそこに明記されている)傷から,新たな展開が得られるということも,研究者なら誰しも体感しているはずです.
外部に正解を求めることと,価値判断の基準を自分の中に持つことは,対置よりは,両立可能な概念であり,その割合は,人や作業によって変わるものです.例えば「とりあえずコンパイルして,エラーメッセージや出力から,正しい振る舞い(コード)に修正する」「論文のある節を,一応埋めてみたとはいえ,その表現に満足できない.でも他に書くべきところがあるから,いったんペンディング*2する」ことも,それしかできないのはまずいですが*3,必要に応じてすべきだし,自分の見る限りではどの学生も,そういった作業を,誰かから教わったのか教わった自分なりに身につけた*4のか,またその効率はともかくとして,やっています.
あと,本文とコメントの「最期」が気になったのですが,単なる誤字というよりは,「背骨」や「骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え」など,身体についての言及があるので,生き方を語る上で意図的に使われたと見ればいいのですね.それにしても学生に対して「最期まで君は」は,自分には無理な表記です.

*1:私なら,その不安を聞いた時点で,「うまく自分の意見を言えてるじゃないか」と言い,感情を絞り出して表現することの重要性を本人が真に理解しないまま,放り出してしまいそうです.

*2:死語だなあ.そうだ,「未来の自分は,他人」というのを聞いたのは,いつのことだったか….

*3:元エントリは,卒研完了まで,価値判断の基準を自分の中に持たなかったように見える学生へのいらだちを綴られたのでしょう.

*4:2月28日:学生が自分の主張を述べにくくなる心理について - 発声練習で引用されていて,書き間違いに気づき修正しました.