わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

父の生き様

Facebookのメッセージで,ある文章を読んで感想を欲しいという依頼があった.
読むと,父親のことらしい.
感想にかえて,自分の父親のことを書くことにする.


日記でこれまで書いた,父とのこと.


父の日は年2回.1月11日と6月2日.誕生日と命日.
最近実家に贈り物を忘れがちでよろしくない.


父は5男3女の三男として生まれた.順番としては,男,男,男(父),女,女,男,男,女だったか.高校までは兄2人とともに田畑のことを手伝い,高校卒業後は大阪に出て,ダンプカーを運転したり,労働争議に関わったりした.そんな中で母と知り合い,争議が一段落を迎えたところで,結婚.2男(兄と私)を得る.仕事をプレハブ建築・解体業に変え,有限会社をつくる.そういった経営者らの会合に出席した晩(翌晩だったかも),家の中で苦痛を訴え,私が運転する車で病院に運ぶも間に合わず.医師によると,心臓付近の大動脈が切れたらしい.享年57.
余談だが,母は1男7女の下から2番目.女きょうだいは母を含めて結婚により改姓し,それぞれを姓で区別することができた.父の場合は,男が多い上に,結婚しても改姓しない(姓が同じ方と結婚した)人がいたりして,姓による区別はできない.代わりに地名を使う.私が父方の親類に電話をするときは,「大阪の,(父のフルネーム)の次男のたけひこです」と名乗っていた.


父なき後,親類づきあいが一時的に増えた.叔母から,父がどういう人であったか話をよく聞かされた.その一つ一つはもはや覚えていないが,感じたことがある.
父は,妹みなから慕われていた.
父の長兄が健勝だったとき,年に2回,正月と盆に「例日」としてみな集まっていた.男衆は広間で飲み食いをし,女衆は台所で食事準備をしながらもくつろぐ.また応接間では,テレビを見たり将棋を指したり囲碁の対局を楽しんだりする人がいた.そういった中で,父と,父の妹との良好な関係というのは,まったく知ることがなかった.
もちろん喧嘩はしない.そして父は,きょうだい喧嘩の一端を担ったり,また喧嘩の仲裁に入ったりすることもなかった.三男なので,リーダーシップを見せる必要はない.その上,一人,地元を離れているので,諍いの全貌を聞かないまま判断をするのを,避けていたのかもしれない.
叔父の一人*1が我が家に来て,父と飲んで食べて,帰った.後片付けのときのビール瓶の本数には参った.あれはたしか1年前の話.
弟妹の愚痴を聞くことに,労をいとわなかった,ということなのだろうか.


その後の私は,ひょんなことから,ある人付き合いの中で「パパ」もしくは「お父さん」と呼ばれるようになった.むずがゆかった.
ここまで書いた,事実関係や憶測の中に間違いが多数あるというのなら,父の生き様は,その後の私の人生や,日々の子育てにおいて,ほとんど影響していないと言うのも,きっと間違いなのだろう.

*1:私にとって父方の叔父がもう一人いる,言い換えると父には弟が2人いるわけだが,もう一人については,家を建てるなど安定した生活を送っていたほか,その子つまり私のいとこの中に,私の兄と同い年の人がいて,言ってみれば子どもどうしで仲良くさせてもらった.父はその叔父さんに対して,兄貴ぶることはあまりなかったように思う.