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大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

ドイツは100,日本は50,米国は81

日本の算数・数学教育に学べ―米国が注目するjugyou kenkyuu

日本の算数・数学教育に学べ―米国が注目するjugyou kenkyuu

  • 作者: ジェームズ・W.スティグラー,ジェームズヒーバート,James W. Stigler,James Hiebert,湊三郎
  • 出版社/メーカー: 教育出版
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 単行本
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何について書かれた本なのかは,訳者まえがきから…

本書は,第3回国際数学・理科教育調査(TIMMS,第3回国際調査と略記)に伴って米国科学財団等の財政援助を受けて行われたビデオによる研究の自国向け報告・啓蒙書です。米国の教育改革―「改革」を拒否し「改善」でなければならぬとします―の実現に向けて,ドイツ,日本,米国の中学校数学の計231授業のビデオを分析し,日本の数学授業の基本形を最も進んだ型であるとします。そして,この基本型をもたらした日本の校内研修,具体的には広島の小学校で行われた算数の授業研究を取り上げ,その成果を検討し,授業改善と教職の専門職化のモデルを日本流改善方式に見出し,米国におけるそれらの普及方法を提案します。
(p.3)

「第3回国際調査」が何年に実施されたのかは,明記されたものが見当たりませんでした.まあ,単年度で完了というのは難しいでしょう.「1993年に始まります」(p.31),「各国から取り出した9本のテープをもってこの過程を1994年の5月に開始しました」(p.35)とあります.原著の"The Teaching Gap: Best Ideas from the World's Teachers for Improving Education in the Classroom"は1999年発行です.
「日本流改善方式」の中心思想とでも言えるものは,「長期にわたる漸進的,微小増加的改善」(p.106)です.同じページにある「米国の教科教育学者は大きな変化を比較的短期のうちに求めてきました」に呼応します.米国の考え方・やり方は,日本においても,「これこれこうすればいいじゃないか」と,教育改革を一言で言ってのけそうな人々のイメージに合致するように感じます.それに対し,大学で毎年,指導内容を大小変化させている者として,「漸進的」「微小増加的」という言葉には励まされる思いもあります.
それはそれとして,ビデオを撮る授業(学級)をどのように選んだかですが…

第3回国際調査ビデオ研究のねらい
大規模にビデオを用いるためには考慮すべきことがたくさんありますが,第3回国際調査のビデオ研究の主たるねらいは次のように単純かつ素直なものです。

  1. 米国の第8学年生がどのような数学の授業を受けているかを知ること
  2. 比較対照の二国,ドイツと日本,の第8学年生はどのような数学の授業を受けているかを知ること。
  3. 米国教師の改革に対する見方,および教師たちが授業で授業改革を実践しているか否かを知ること。

(pp.32-33)

この研究では標本が決定的に重要です.中学2年生の数学指導に関する全国水準の描写を作り出すつもりならば,抽出された教師は中学2年生の数学教師を確実に代表するものでなければなりません。幸いにして,第3回国際調査の標本抽出計画はきわめて綿密に立てられており,ビデオの標本は第3回国際調査の全体の標本からさらに無作為抽出をして構成しました。
授業の選択は容易ではありません。最初に学校が決められ,続いて教師,学級と選ばれました。ある教師を別の教師に入れ替えたいとの学校側からの依頼,あるいは抽出された学級とは別の学級に替えてビデオを撮ってほしいとの教師からの依頼がしばしばありました。私たちはいかなる類いの入れ替えも認めませんでした。入れ替えを認めると,研究に片寄りが生じてしまうからです。
最終的な標本は「全国確率標本」です。この用語は,その国の中学2年生の数学担当教師,およびその教師の担当学級から無作為に標本抽出が行われたことを意味します。このことはビデオ研究を行った三か国のいずれについても同様です。最終的にビデオ研究は第8学年(中学2年)の231学級を標本とし,うち100学級がドイツ,50学級が日本,81学級が米国の学級です。学級数はそれほど多くはありませんが,無作為抽出によって標本とされたので,三か国のそれぞれにおいて生徒が受けている数学授業に,全体として見ればおおよそ近いものであると確信します。要するに,統計的方法において最高の基準に見合う標本を得たわけです。
(pp.33-34)

「100学級がドイツ,50学級が日本,81学級が米国の学級」というのは,ずいぶんと開きがあります.この文には「2)」として注意書きがあります.「お国事情」という言葉を連想しました.

2) 各国とも100学級を考えましたが,入れ替えを認めなかったため米国では19学級が消えました。日本は地理的に狭く,同質性も高いことから50学級で十分とされました。
(p.37)

日本に関して,ビデオに撮って比較するより前の段階で,「同質性も高い」と言えるのは,すごいことです.ただ,何に基づくのか,どこで/誰がそう言ったかが書かれておらず,英文で確認してみました.

3. The original intent was to videotape one hundred classrooms in each country. The no-substitution rule eliminated nineteen classrooms in the United States, and the Japanese collaborators decided that fifty classrooms would be sufficient in their country because of its relatively small size and homogeneity.
("The Teaching Gap", p.183)

本の学校や教室を無作為抽出し,同意を取り付けて,実際に撮影するといったことの計画・実施というのは,日本の研究協力者がいないと到底無理ですね.ぼおっとしていました.


気になった箇所を箇条書きで.

  • p.75: ドイツと米国は教師主導型,日本は,教師と生徒がバランスよく活動
  • p.80: 日本の授業で,問題を与えるがその解き方は最初に説明しないことがある(米国では,問題を課す前には必ず解法を説明する).
  • pp.91-92: 米国では,誤りの最小化に努める.日本では,混乱や失敗は当然生じるものとして授業を計画・実施する.
  • p.94: 米国では,個人差は効果的な学習指導の障害であるとみなし,能力別編成を肯定する.日本では,個人差があるのは当然のこととして授業計画を立て,同一教材での学習を基本とし,そこから多様な考えを引き出してクラスで共有する.
  • p.109: 日本の授業研究において,授業実演後の会議(検討会)では「授業を演じた教師」ではなく「授業」に焦点を当てる.
  • p.144: 良い授業は,不確定性を抱え込んでいる
  • p.160: 「医師は多数の医師の長年にわたる経験にもとづく標準的な技術と処置法とを用いる」―標準指導を医療にたとえる
  • ページ失念: 米国では,授業中に校内放送や業者の出入りが割とある.日本では,授業開始時に起立礼をする.


訳者による解説の中に,教育,学習,コミュニケーションについて,考えさせられるエピソードがありました.

四月初めのある日,家に近いバス停に立っていたところ「このバスは大学に行きますか」と聞かれ,「行きます。私も行くところです」と言って最寄りのバス停を答えました。質問者はすぐに道路を横切って,そこにいた若い男性と話しながら路地に消えました。質問者は彼の親,彼は近くに間借りでもする新入学生でしょう。この前提を出発点として考えます。上記の二人に関する真偽を問題としません。「バスは大学に行く」ことを親は子どもに教え(教育し,実は指示し),子どもは有効な情報を知った(学習した)でしょう。
この親は,子どもに対する好意からであったにせよ,願ってもない学習機会,教育資源を台なしにし,子どものより豊かな学習を妨害しました。本書の言葉を用いれば,課題に取り組んだのは親であり,子どものためになるはずのせっかくの課題を子どもから横取りして,肝心な部分は親が取り組み,かみ砕いた結果を子どもに与えました。
この新入学生が得た知識は,明日から必要だとしても転居などでほとんど無効となる狭い範囲のものです。豊かな学習とは,当座の必要性に立脚しながらより広く有効な知識や能力を獲得することです。(略)この場合について言えば,質問する能力,好感を持たれて質問以上の返事を時にもらえる能力を身につけることです。この能力は上記の「バスは大学に行く」よりもはるかに有効で,実際この知識を容易に再生できる力であり,大学ではもちろん,終生必要かつきわめて有効な能力でありながら大学生の多くには不足しています。多様な相手に応じ,多数の機会を積極的に生かしてこの能力を形成すべきです。本人が直接聞きにくれば当座の利益だけでもいろいろあったでしょう。もっとも,先の質問者が,自分の人生経験を生かして近隣の者と想定されるバス待ちの人物の品定めにきたのであれば,すばらしい親なのかもしれませんが。
皮肉をこめて言えばこの親の行動は私の学習資源になりました。この親の行動を大学でまねれば学生による評価は高くなると気づいたことです。親の行動は子どもの要求や期待と合致しているはず,最近の親子密着状態では,です。具体的には,教科書の問題を(学生から横取りして)私が解き(取り組み),解答(結果)をプリントにして渡す(指示する),です。それを暗記して試験に臨むことで学生に一時的でごくわずかな利益はあるにせよ,これは教育的にきわめて貧しく,我が国の将来にとって甚だ恐ろしいことだと思われませんか。
(pp.174-175)

断片的にはなるほどまあなあと思いつつ,このエピソードにおける訳者の考え方には,賛同できません.「長期にわたる漸進的,微小増加的改善」は,そこで登場する新入学生や,私が普段目にする大学生・大学院生にもあてはまるものだし,「多様性」は学級の中の様々な生徒からだけでなく,学習者(問題解決者)自身の,類似した状況に対するその都度異なる行動(何も行動しないことを含め)の中からも得られると,考えられるからです.