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数学教育は,実践的な営み

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文章と,参考文献*1から,この著者は数学者であると同時に高校数学の教育にも深く関わり,そして小中などの算数・数学教育についても提言をしている方のようです.
第4節のタイトル(「理工離れ」よりも「知離れ」)については,同意するところもある反面,次のような思いもあります.小学校の算数や中学高校の数学に関して,入試を含む試験のための勉強を除けば,答え(正解であるとは限らない)を作るよりも,正解を見つけてくるほうが手っ取り早いのです.インターネット*2からの情報収集,そして高度に発達した情報検索技術のおかげで,今回読んだ解説が執筆されたころよりも,現在のほうが,低コストに行えるように思えてなりません.
ともあれ,気になったのは,第3節の(3),「数学者のメンタリティー数学教育」です(pp.32-33).数学者が,小中高の算数・数学にどのように関わるべきか,その際にどのような人や諸条件を考慮すべきかが,5つの段落で記されています.最後の段落を除き,順に,書き出しておきます.

第1節で触れたカリフォルニアの数学戦争の争点は,政治がらみの対立等の夾雑物を捨象すれば,初等中等教育レベルの数学の教え方に関する,(州政府の委託を受けたスタンフォード大学の数名を含む)「数学教授たち」の方針と,(国家基準の作成母体でもあった全米数学教師協議会に代表される)「数学教師たち」の方針の衝突である。かいつまんで言えば,教授たちは「筋どおりの教え込みと訓練が第一である(direct instruction and practice)」と伝統寄りの主張であり,教師たちは「共同学習や問題解決,さらに応用重視」が学力向上に有効であると引き下がらない(アメリカの教師たちは日本の教師たちに比べて元気がよい)。

数学戦争といえばMath War,全米数学教師協議会といえばNCTM.
それはそれとして,「教授たちは…伝統寄りの主張」には驚きました.日本の数学の教授が,こんな主張を発したのは見たことがないもので.自分が学生時代に教養や専門で学んだ際にも,先生方は各授業の範囲内で誠実に教えてくださっていたように記憶します.

筆者の印象では,小学校では教授たちの主張が当てはまり,中等教育では(生徒の能力・個性に応じてのことであれば)問題解決の有効性を認めたい気がするが,本質的には,「どちらがよいか」の価値観の問題ではなく,場面に応じるバランスで総合的に併用されるべき方法論の問題であると思う。アメリカの文部大臣の仲裁も「それぞれの価値観は異なっていても,生徒の未来のために協力しなさい」という趣旨である。

私は,小学校のうちから問題解決のウエイトが高いように思っています.「学び合い」や「算数的活動(数学的活動,言語活動)」といったキーワード,そしてそれらに基づく指導や実践は,問題解決にプラスに働き,相対的に,訓練のウエイトが下がるわけです.
「本質的には」以降その文末までについては同意します.アメリカの文部大臣は,政治的なメッセージなのでしょう.

数学者は数学を最も愛しかつ最もよく知る専門家であることは間違いない。したがって,数学教育に数学者は発言する権利を持っている。
しかし,(数学の研究を本業としてきた筆者の)反省と自戒を込めての陳述であるが,数学教育にかかわる数学者は「身の程」を知るべきである。学校における数学教育は,学校制度,社会環境,歴史的現実,教師陣と生徒たちという多くの要素と制約条件のもとで行われる実践的な営みである。例えば,指導要領の作成の作業をとれば,それは,病人の状況や可能な医薬の手段などの制約のもとで最適と思われる治療を実行せねばならない臨床医の仕事に近い(この比喩は,臨床医と同様に,指導要領作成者はかなりの結果責任を取らねばならないことも示唆するものである。⑭*3を参照のこと)。これゆえに,数学者が数学の見識に基づいて指導要領等に対して発する忠告や批判は貴重ではあるが,これらの要素や制約条件が不足すると現実的な説得力がない悪口に墜ちかねない。
(強調は引用者)

強調部(「学校における数学教育は」から始まる文)には,思い出すものがあります.数学と教育の協同で引用した,「数学教育というものは, 数学自身とは異なり, 精密科学ではない. もっと経験的で, 元来, 総合的(多分野にまたがる)なものである. その目的は, 知的に閉じてはおらず, 不確実さや不確定さが必然的に伴う人間というものを支援することにある. それ(数学教育)は, それ自身の, 明証さの基準, 論議や理論構築の方法, 専門的な論述等々をもつ, ひとつの社会科学である」のところです.
数学にも数学教育にも直接関与しない自分が,それらをどのように観察・分析すべきか,そして授業や研究室で学生に,また家庭内で妻や子どもに,数学(算数を含む)について何を言うようにすればいいのかの指針が,先人のアドバイスとしてまた一つ,頭の中にアサインされたように感じました.
引用に戻りまして,後半では「指導要領」という言葉が何回か出てきます.参考文献からすると,学習指導要領を指すようですが,その策定や改訂に携わることのできる人は非常に限られています.
「臨床医」と同じスケールにするなら,学校の各教師でしょう.そして,指導要領を,学習指導案に置き換えるのがよさそうです.そうすることで,「学校制度,社会環境,歴史的現実,教師陣と生徒たちという多くの要素と制約条件のもとで行われる実践的な営み」という表現と合致します.
ただし「病人」は,(単独の)児童・生徒ではなく,学級の児童たち・生徒たちに対応します.ある子どもは以前に学習したことを覚えている,別の子どもは覚えていない(もしくは間違って理解した),といった場合でも,授業を通じて話し合い学び合い,誤解を解くとともに知識を強化する,そんな学習環境をイメージしました.
学習指導案と小学校算数の関わりについては昨年,以下の記事で取りまとめを図りましたので,どうぞご覧ください.

(最終更新:2013-09-24 朝.カテゴリーのうち「本」を取り除きました)

*1:17の参考文献のうち自著が10あって,日本語文献のタイトルからは「高校数学」,英語文献では"senior secondary"を多く目にします.

*2:本文は,「インターネットの爆発的普及が象徴するように」から始まります.

*3:原文は角丸の正方形の中に14。引用(citation)であり,藤田宏「だれのための高等数学か――真説 高等学校指導要領のねらい」(『数学セミナー』vol. 33,No. 1,1994年,所収〔68〜70頁〕)が該当します.