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教育効果を測定することの不可能性〜「デジタル教科書」批判

個々の話には「なるほど」ですが,読後感が良くありませんでした.それは,推進されようとしているデジタル教科書への批判が,テーマとなったからでしょうか.
本題に行く前に,「読者を選ぶ*1」文章が後半に入っていたので書き出します.全体構成やら前後関係やらあるので,簡単にはいかないでしょうが,この一節が早いところで書かれていれば,それだけでも個人的な印象が変わっていた---もっと引き込まれるように読んでいった---と思っています.

もうひとつ、こうしたシューティングゲーム系の学習ゲームに共通する「興味深い」特徴がある。それは、ゲーム上で問われる問題と、ゲームの上での問題解決の間になんら意味のある関係を見出し得ないという点である。たとえば、3×□=12の答えが4であることと、なぜ「モンスターが死ぬ」のか。そこには何ら意味のある関係性を見出すことはできない。学習指導要領の中学校数学の冒頭には、「数学的活動の楽しさや数学のよさを実感し、それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる」ことが大きな目標として掲げられている。もちろん、こうしたゲームに夢中になることで、これまでやや苦痛だった数学の時間が「楽しくなる」かもしれない。子どもたちの目が「輝く」かもしれない。が、それは、「数学のよさを実感し、それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる」ことには結びつきようがない。なぜなら、それらは単に特定のゲームをクリアするための手段でしかないのだから。
(pp.41-42)

さて,「教育効果を測定することの不可能性」は,pp.17-20にあります.主要なところを,また書き出します.

ハードウェアだけでなく、「デジタル」には様々な制約がある。この制約を所与として受け入れたとき、どのような副作用が起こりうるのだろうか。
正直に言うと、研究者である私たちもそれを知らないし、ある程度副作用を予測できたとしても、それを「科学的に」に示す方法は極めて限られている。
「そのような無責任なことがあるか。研究者はなにをしているのか」と言われるかもしれない。だが、残念なことだが、科学は万能ではない。「理解の深さ」のように、数量的に測定したり言語化したりすることができないタイプの教育効果は、基本的には測ったり比較したりすることは難しいのである。しかも、あからさまに顕著であるもの以外は、あるファクターが人間に対して及ぼす「長期的な影響」を統計的にあぶり出すことは難しい。
たとえば、教育手法Aが教育手法Bよりも優れているということをどうすれば「科学的に」示すことができるか、考えてみよう。それには、同じ条件を満たす二つの学習者のグループに対し、A・Bの教育を施し、そして、その直後にその教育効果を計測し、AのほうがBよりも教育効果が高いことを、主として統計的に示さなければならない。実はここにこそ現在の教育学や教育工学の大きな問題が潜んでいる。
まず、この方法では長期の影響を測ることはできない。A・Bという二つの教育手法の教育効果を正しく比較するためには、それを施した後、なるべく他の影響を受けないことが望ましい。でなければ、測定結果が何に起因するか結論づけることができない。しかし、児童・生徒が実験以外の影響を受けないよう行動を制限することは倫理上許されないであろう。さらには、AのほうがBよりも教育効果が高いという仮説を立てながら、一部の児童に対し、比較をする目的だけからBを施すということには、学校からも保護者からも理解が得られないだろう。よって、実施直後に効果を測り、その後でAも施す、ということになる。こうした実験は授業時間を「借りて」実施するものであり、「実験」を目的として数カ月も通常の授業を変更することはできない。数日かけて実施することもままならないことが多い。
次に、この方法では、数量的に測定したり言語化したりすることができないタイプの教育効果は測ったり比較したりすることができない。(略)
さらに難しいのが、データが存在しない過去と現在を量的に比較することである。
(略)
以上のようなことを考えただけで、環境が児童・生徒に及ぼす影響や、ある教育方法がどれほど効果をもつかについて、科学的に立証可能な範囲がごく限られていることがわかる。
唯一提案できるのは以下のようなことであろう。より深い理解、複層的な視点に到達していると思われる子ども、あるいは知の熟達者が、紙のメディアで勉強しているときどのようなスタイルをとっているかを観察し、それがデジタルで完全に代替できるか、ということを公平な目で判断するのである。(略)
同様のことは、テレビのようなメディアに関しても言える。自ら観察や実験をする子や科学読み物を読む子に比べて、テレビの理科番組を見るこの方が、より深い理解に達していると感じられるのであれば、紙のメディアや体験をテレビのような動画メディアに代替しても問題ない。が、そうでないのであれば、代替することは難しい。そう考えるのが合理的だろう。

「「科学的に」に示す方法」について,数学教育で読んだことがあります.えっと…「「科学的な」実験心理学の研究方法だけでは数学教育研究には限界がある」(『数学教育学研究ハンドブック』p.11,日本数学教育学会による,乗法の意味づけ)でした.今回のほうが,詳細化されています.
ところでこの文章からは,読み手の持つ知識,それと読んだときの気分によって,次の2パターンの反応が予想できます.一つは,「長々と『できないことの言い訳』を書いている」です.もう一つは前向きなもので,「よく知られた成功例を,他の分野に適用したいと思っても,事前の検討や思考実験をしてみると,問題点がある(そう簡単にはいかない)ことが分かる」という事例の追加です.優等生的な態度なのを承知で,後者のリアクションを基本としたいものです.


それはそれとして,自分は,デジタル化に対応した何かを持っているか…
出てくるのは2つです.まずは,Cプログラミング授業です.サンプルプログラムとテスト問題(多肢選択式,穴埋め式),要所解説のPowerPointといった「コンテンツ」を引き続き整備し,意欲やニーズ,能力に応じて,適切な問いかけをしていくようにします.
もう一つは,プログラミング言語に依存せず,ツールや情報を組み合わせて,デジタルなものづくりをしていくノウハウです.ツールは,ソフトウェアやコマンド,Rubyなどの処理系も含まれますが,計算機の話に限りません.学生や妻子からのアドバイスや,時間の経過も,問題解決に有効に働くことがあり得ます.去年手がけた中で,満足のいく結果といえば,トライアングル3分割があります.
デジタルなものづくりで心がけていきたいのは,「再現可能」になるよう情報を整備することと,プロセスやノウハウは必ずしもすべて記録・再現できないことに注意すること,あたりだと思っています.

(最終更新:2013-01-24 朝)