わさっきhb

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言葉の式の交換法則,江戸しぐさ擁護論

「かけ算の順序」から何周りも外の話を2つ.

言葉の式の交換法則

小学校3年のかけ算・わり算文章題を対象とした作問学習支援システムで取り上げた文献(「[山元2017]」と書きます)の,以下の記述を思い出しました.

試験紙には先行研究同様,三種類のテストを用いた.問題解決テストは,通常の授業で扱われる乗除算の問題解決課題と同様である.問題構成は,乗算,等分除,包含除の物語から「いくつ分×一つ分の数=全部の数」を除いた5種類について,各単文を未知数とした5×3=15問となっている.この物語を除いた理由は,乗算については交換法則が成り立つためである.

気になったのは,「乗算については交換法則が成り立つ」の使われ方です.そのことを検討するため,「乗算,等分除,包含除の物語から「いくつ分×一つ分の数=全部の数」を除いた5種類」の特定を試みます.
5種類から,乗算を1種類とみなして引けば,4種類です.「4種類」は,[山元2017]のp.63にも以下のとおり,示されていました.

レベル6-9は乗除算文章題の構造がどのような演算を表現しているかを学習させる段階でアリ,乗除算文章題の割合の三用法を取り扱っている.(略)そのため,「“18÷6=3”の式で計算できるお話をつくろう」のような課題文が提示され,課題により提示される関係式は,乗算,除算(等分除),除算(包含除),の3種類となる.なお,等分除と包含除は共に除算なので,除算の式を与え,等分除,あるいは包含除として物語の両方を作成可能な課題も考えられる.例えば18÷6=3の場合,3を一つ分の数に割り当てる場合と,いくつ分に割り当てる場合の2通りの問題を作成可能とするような課題である.したがって作成可能な課題の種類は4種類となる.

論文で述べられているシステム(インタフェース)から離れて,「“18÷6=3”の式で計算できるお話」を4種類,作ってみると,例えば以下のようになります.

  • 18個のミカンがあります.子どもが6人います.子どもに□個ずつ配れます.
  • 18個のミカンがあります.子どもに6個ずつ配ります.□人の子どもに配れます.
  • 18個のミカンがあります.子どもが□人います.子どもに3個ずつ配れます.
  • 18個のミカンがあります.子どもに□個ずつ配ります.3人の子どもに配れます.

これらは異なる「お話」となります.2番目と3番目も,かなり似ていますが,区別されます.2番目は,ミカンの総数(18個)の次に,子どもに何個ずつ配るかが,固定の「6個」と提示されています.それにより,何人の子どもに配ることができるかを,求められるというわけです.
それに対し3番目は,ミカンの総数(18個)の次に,子どもが何人いるかが,「□人います」として提示されています.その段階では未知数だけれど,お話としては,何人なのかが決まっている,と解釈することができます.そして「子どもに3個ずつ配れます」と続けます.式は18÷□=3で,この□に合う数は,6だ*1,だから子どもは6人だというわけです.
なお,ミカンを配る問題は,原文にはなく,わり算,包含除・等分除,トランプ配り (2016.05)からのアレンジです.上記の4種類のお話について,2番目の文は「います」「配ります」と,存在に関する文とし,3番目の文は「〜個ずつ配れます」「〜人の子どもに配れます」と,可能性に関する文にしているのは,2番目の文と3番目の文を区別する意図的なものです.
同様にして,乗算のお話を考えてみます.「“3×6=18”の式で計算できるお話をつくろう」と設定し,次の2つのお話を比較することにします.

  • 子どもに3個ずつ,ミカンを配ります.子どもは6人います.ミカンは全部で18個必要です.
  • 子どもは3人います.子どもに6個ずつ,ミカンを配ります.ミカンは全部で18個必要です.

「子どもに3個ずつ,ミカンを配ります」から始まるほうは,2年で学習する「一つ分の数×いくつ分=全部の数」に基づき,3×6=18という式で求められます.また「子どもは3人います」から始まるほうに,「いくつ分×一つ分の数=全部の数」が適用できると,仮定すれば,これも3×6=18となります.
「と,仮定すれば」と書いたものの,(日本の)小学校の算数(の教科書)でも,また今回の論文でも,「いくつ分×一つ分の数=全部の数」は対象外とされています.
これについては,「一つ分の数×いくつ分=いくつ分×一つ分の数」という,言葉の式にの交換法則が成立することを根拠とするのはどうかと,考えてみました.
とはいえ,よく用いられてきた交換法則との違いも,見ておかないといけません.従来,交換法則は「計算の性質」あるいは「数の性質」であり,3×4が4×3と等しいのは事実だが,日常生活においてそれらが同じであるというわけではないことは,洋書からも知ることができます*2.「一つ分の数×いくつ分=いくつ分×一つ分の数」は,数の性質とは異なる等式にも見えます.
引き続き,自分の頭の中に収めておき,何かあったら取り出せるようにしたいのですが,本日の到達点は,次のような対比となります.すなわち,算数教育に批判的な人々が,言葉の式の交換法則(一つ分の数×いくつ分=いくつ分×一つ分の数)を根拠に,「いくつ分×一つ分の数」という立式でもよいのだと主張するのに対し,[山元2017]では,同じ式を背景に,「いくつ分×一つ分の数」と立式することは考えなくていいのだと推論できるように,読めるのです.
ここまで整理を試みたものの,「問題構成は,乗算,等分除,包含除の物語から「いくつ分×一つ分の数=全部の数」を除いた5種類」についてはまだ,納得できていません.「18個のミカンがあります.子どもが□人います.子どもに3個ずつ配れます.」と書いてみたお話は,等分除で2番目の単文を未知数とした問題に位置づけられ,異なる種類ではないのではという思いが,拭いきれないからです.

江戸しぐさ擁護論

調べ物をしていて,記事を見つけ読みました.

対象と手段の区別がなされていないなあ,♯M×♯N=♯(M×N)の両辺の×は意味(演算の対象)が違うんだよなあ,などと思いながら読み進めると,終盤に「(注意3)「わさっき」氏へ」から始まる文章がありました.

URLとしてhttp://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140901/1409475524江戸しぐさ批判本が掛け算の前後にこだわる)とhttp://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140904/1409783515江戸しぐさ読み直し〜北部九州の街道)を挙げられているのが,目につきました.
なお,江戸しぐさについては,同じブログの方が「江戸しぐさ」という嘘を載せた啓林館の算数教科書『わくわく算数』 - 身勝手な主張という記事を書かれていて,公表日(2015年8月15日)に自分がはてブしています.啓林館算数教科書の中で「江戸しぐさ」への言及があるのは,現在も確認ができて,http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/text/sho/h27textbook/math/data/dp_detail_math.pdf#page=32です.
さて当ブログの状況ですが,江戸しぐさ関連ではその後,2つ記事を書いています.新しく得た情報をどのように判断し,公表するのかについて二宮金次郎にも葛藤です.タイトルに「江戸しぐさ」を入れていなかったためか,2015年8〜9月の2つの記事において,参照されたようには見えません.
当ブログの4件から,特徴的な記述を取り出します.

巻末の参考資料リストに『かけ算には順序があるのか』が入っていました.あの本は第1刷で「時速1kmあたりで3km歩く道のり(1あたり量)の時速4km分(いくら分)」と書かれ,第3刷で「時速1kmあたりで3km歩く時間(1あたり量)の時速4km分(いくら分)」に変わっていたのでした.新しく得た情報をどのように判断し,公表するのかについて,これからも注意を払っていくとします.

記述5と記述35は,「この国の道路は」「この国では」とあることから,北部九州のみの記述とは思えません.もちろん全国すべての道路でそうだ,江戸も上方の町もそうだったんだ,というのは言い過ぎでしょうが,江戸時代の街道は,概して,整備されており,かつ左側通行だったと言うのは差し支えなさそうです.
なお,『江戸しぐさの正体』p.66では,絵をもとに「人々はてんでばらばらに歩いており、「七三の道」など気にかけているようには見えない」としていますが,ここは支持できません.それらの絵には,江戸の町が秩序だっていることよりも,賑わっている状況を可視化したいという,絵師の意図が働きやすいと考えられるからです.

道のり(より正確には,「3km/(km/時)×4km/時」の式)では,「秀逸」という表現とともに,信頼している人の言説にパクついた格好となっています.そこには,過去の蓄積との照合も,教育現場や将来への展望も,想像することはできません.
(略)
研究者にとって,定量評価をより良く見せたいといった誘惑と似たものを,定量的な記述を伴わない2冊の本を通じて,確認することができたのでした.

この2件より,あえて共通点を探るなら,「同業者の批判・批評」でしょうか.
これからも本を読んでいき,教育に何が求められているのか,どんな本や記述が自分にとって心地よいのか,考えていくことにします.

『私たちの道徳』や関連文書,『江戸しぐさの正体』の第六章以降を読んで,現時点で思うのは,出版され多くの人に読まれるために,何を活用し何には言及しないかといった,取捨選択の重要性です.前者が江戸しぐさを採用し,後者が『かけ算には順序があるのか』を参考資料に入れたのにも,各執筆者の思いがそこに込められているわけです.とはいえ,江戸しぐさが史実的にあり得ないことだけを書いたのでは,「売れない」こと,そこで教育問題と関連づける必要があったことは,想像に難くありません.

内容としては偉人のエピソードだし,『報徳記』はその作成経緯から,美談を載せたくなるだろうなというのも,それなりに想像できます.数年前によく見聞きした「盛る」というのが,最もよく表しています.
そうしてここでも,取捨選択の重要性に思い至るのです.
二宮金次郎は,「家業を支えながらもしっかり勉強しなさい」というメッセージをこめて,ある時期の教育で活用されてきたわけです.そして現在,夜に勉強するなと叱られたとしても,それでやめるのではなく,「あきらめてはいけない。がんばろう。」という気持ちで努力をするのですよ,という形に変わりつつあるんだな,というのは,この教材と授業案を目にしたところでの感想です.
教え込み型の教育との違いも,あります.子どもらの意見交換を通じて進めていく(ことが求められる)今の教育そして授業では,「べんきょうをやめてしまおうかな。」を,教師にとっては二宮金次郎に投影される葛藤の一部として,児童に言ってもらうことになります.

Q: 「江戸しぐさ」は捏造でしょ?

A: まあ,面白い創作ですね.好きにはなれないけれど.
本記事において私は,捏造かどうかには関心がなく,二宮金次郎にせよ,「江戸しぐさ」にせよ『江戸しぐさの正体』にせよ,執筆者が何に誘惑を覚えて取捨選択し,目に見えるモノ(出版物)になったのかを知ることを,優先して書きました.
その知見は,学会発表(とくに図書・出版の関係)を聞く際にも有用だし,質問をしたこともあます.「何を書くべきか」「何を書いてもよいか」「何は書かないほうがよいか」「何は書いてはいけないか」の区別は,論文その他の執筆(学生の論文指導を含めて)の基本となっています.

江戸しぐさ」もそうだし,それが道徳や(啓林館の)算数教科書に取り入れられているのもそうだし,『江戸しぐさの正体』も『かけ算には順序があるのか』も,それぞれの記載をもとに,読み手はどのように理解し受け入れればよいのかが,問題意識の根底に常にあります.出版物の流通が止まったり,増刷にともない本文が書き換えられたりすることがあるのにも,意識しておかないといけません.ふだんの研究においても,収集したコンテンツを適切に保持することや,バージョン管理への配慮は,おろそかにできません.また学会で図書館・出版関連の発表をよく聴きますので,それらへの感度も,標準的な研究者ブロガーよりも高いと認識しています.
それはそれとして,「(注意3)「わさっき」氏へ」の途中に書かれた,「だけれど、何が言いたいかよくわからなかった。「江戸しぐさ」を擁護しているとしか思えなかった。」は,読み直してみて共感できるところでもあります.自分の言葉で書き直すと,江戸しぐさ批判本を批判して(ネタにして)書いていると,結果的に江戸しぐさ擁護論へと至るのではないか,ということです.
このように言葉にすることで,「江戸しぐさ」にまつわるもやもやを,少しは取り除くことができたかなと思うようになりました.
もちろん日記の撤回をするわけではなく,ちょっとした「ものの見方」の転換です.読んで見て聞いたのを,1日1件のブログ記事にする生活は,当面変わりません.

(最終更新:2017-01-25 朝)

*1:3番目と4番目の場面は,「除法逆除法」です.http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20161021/1476995034もご覧ください.

*2:例えば,http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20151121/1448031600