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テストは教育の目的か手段か

遠山啓著作集数学教育論シリーズ 5 量とはなにか 1 (1978年)のpp.114-120に収録されている,「6×4,4×6論争にひそむ意味」を取り上げます.前回も書きましたが,この本自体は1978年発行で,該当記事の初出は『科学朝日』1972年5月号です(同書p.295).中に3つの小見出しがあります.

  • テストは教育の目的か手段か
  • かけ算はたし算のくりかえしか
  • 加法・減法と乗法・除法はべつの演算と教えよ

本日は,「テストは教育の目的か手段か」を打ち出して引用し,手元の書籍やこれまでに書いたことと比較していくことにします.

1972年1月26日の『朝日新聞』に小学校のテストをめぐる論争がのった.それによると,昨年の秋,大阪府松原市・松原南小学校の2年生のテストに,つぎのような問題があったという.
「6人のこどもに,1人4こずつみかんをあたえたい.みかんはいくつあればよいでしょうか」
これに対して何人かの子どもは,
6×4=24
と書いたが,その答案は,答えの24こにはマルがつけられ,式の6×4にはバツがつけられ,4×6と訂正されたという.そこで,これに疑問を抱いた親が,文部省にも質問状をだして論争がまきおこったらしい.
この論争をのせた新聞を送ってもらって読んでみたが,じつにおもしろかった.そこには学校教育をめぐるいろいろの意見をかいま見ることができた.

朝日新聞の記事は,1972年1月26日の朝日新聞の記事 | メタメタの日より読むことができます.私の考えは,形成的評価についてのはじめに書いています.
問題・誤答・訂正は,昨年11月に起こった論争とまったく同じ構図です.論争はネット内で,という違いはありますが*1

これを読んでまず感じたことは,テストはなんのためにやるのか,という疑問であった.そして,この論争に参加しているほとんどすべての人びとが,テストの意味について考えていないらしいということであった.
すべての子どもを賢くするのが教育であり,その一つの手段として,テストは存在理由をもっているのであろう.教師が自分の教えたことがどのくらい生徒に理解されているかを測定し,その結果にもとづいてつぎの教育のしかたを工夫する,ということであったら,それは承認できる.
いずれにせよ,テストは教育の一手段であって,その目的ではない.テストをそのように考えたとき,この問題はどうみるべきであろうか.
6×4=24と書いた子どもがいて,教師がそれを誤りであると認めたら(私は誤りであると思わないが),その子が納得するまで教えてやるべきであろう.しかし,新聞記事で読んだかぎりでは,そういうことはなされなかったようである.新聞でみるかぎりでは,6×4と書いた子どもにバツをつけて,それでおしまいになったようだ.これはどこの学校でもやられていることだが,じつはそこに今日の重大な問題がひそんでいるのである.
テストをやってバツをもらった子どもは,「おまえはできなかった.だから,そう思え」ということだけで放りだされる.バツになった理由を子どもが納得できた場合には,まだよい.しかし,子どもがなぜバツをつけられたか納得できなかったときには,先生に対して不信感が生まれるだろうし,算数がきらいになってしまうこともあるだろう.テストが差別と選別の目的となるとき,どうしてもそういう子どもがでてくる.

遠山氏の当該記事全体を読んで,テストの意味に2通りがあるというのは分かりますが,どのような状況でのテストだったのかについては,判然としません.
『教師が自分の教えたことがどのくらい生徒に理解されているかを測定し,その結果にもとづいてつぎの教育のしかたを工夫する』や『その子が納得するまで教えてやるべきであろう』は現在の用語でいうと「形成的評価」に,『おまえはできなかった.だから,そう思え』は「総括的評価」に,それぞれ対応するように思われます.これらの2種類の評価については,遠山啓エッセンス,2度読みで指摘しました*2
教育評価 (有斐閣双書)』の中で何度も言及のある『教育評価法ハンドブック』は,邦訳が1973年刊,そのもととなるブルームらの『学習者の形成的評価・総括的評価ハンドブック』は1971年に米国で発行とあり,60年代後半から70年代前半にかけて,これらの評価が議論され,ところによっては教育現場に浸透していったと,想像できます.なお,遠山啓エッセンスを読んだ際の記憶として,遠山氏がこれらの概念を当時読んで知ったうえで援用しているという形跡は,見当たりません.
『(私は誤りであると思わないが)』については,別の機会に取り上げます.『6×4と書いた子どもにバツをつけて,それでおしまいになったようだ』のところですが,それより前の『4×6と訂正された』から,児童に再学習(というか「見直し」ですね)を促すための行為が教諭よりなされており,したがって,総括的評価ではなく形成的評価に関する活動だと判断できます.
「どのような状況でのテストだったのか」については,「×」から学んだことで,「Q: 問題の画像から,あなたは何を読み取りましたか?」への解答として,書いたことがあります.
そこでは,《題意による正答》は,問題文中の数字を逆順にしてかけ算で表す(「逆順」と呼びます)という操作をしています.もちろん,問題文から数字を2つ取り出し,その順にかけ算で表すことが要請される問題(「正順」と呼びます)を先に指導しているはずです.ここで,授業の中で正順と逆順をともに指導してから,逆順の《問い》を出し,どっちで書くべきか確かめさせている*3,という可能性が考えられます.その流れだと*4,トランプ配りを根拠とする余地がまったくなくなり,バツにされます.11月27日のエントリをはじめ,以前に当雑記上で検討していたときは,正順ばかりを教えてから逆順の問題を出したというシチュエーションを念頭に置いていました.

ところが,それとは反対に,テストが教育の手段に使われるなら,そのテストの結果はおおいに利用できるだろう.6×4と書いた子どもがいたら,バツをつけるまえに,その子に,なぜそう書いたかをクラス全体の子どもに説明させて,いいかわるいかを討議させるといいだろう.そうすると,その討議の過程で,その子がまちがっていたら,なぜ誤りとされたかを納得するだろう.また,4×6と書いた子どもも,その子の説明を聞いて6×4の考え方がわかって,賛成するかもしれない.
いずれにせよ,クラス全体の子どもたちが複雑な思考法を身につけるチャンスをえることになる.その意味でも,バツをつけて終わりにしたら,せっかくのチャンスをのがすことになってしまう.
ところが,この問題をめぐって寄せられた投書をみると,ほとんどがマルをつけるかバツをつけるかにだけ気をとられて,テストの意味そのものに立ちかえって考えたものはなかった.ただ,ある主婦の投書に,「授業中に別の考え方が出れば,授業がいっそう充実したものになると思います.たまたまテストで別の考え方が発見されたら,先生はていねいに取上げてほしい」というのがあった.この意見は正しい点をついている.
ところが,「言語,文字,数式などは社会的な約束です.4×6であって6×4ではないというのは約束です.約束を守り,守らせることは思考の統制ではありません」というのは元小学校長の投書であった.この人は,すべての子どもを賢くするよりは,どうも管理することに関心のあった人らしい.

国語的には,「ところが」から始まる段落が4つのうちに3つあるので,主張が整理されていない印象を受けます.それはともかくとして…
『6×4と書いた子どもがいたら,バツをつけるまえに,その子に,なぜそう書いたかをクラス全体の子どもに説明させて,いいかわるいかを討論させるといいだろう』については,まず,どのように学習させた上でテストを受けたかに依存します.遠山氏の当該記事からは,「テストの意味」について,テストを受けたときを起点として未来の方向でどうすればよいかは読み取れますが,過去の方向,すなわちそれまでに何を児童らは学習してきたか,そして,過去・現在・未来を結びつけた上で,ある時点で何を問うのかという視点が弱いように,感じました.
それから,『複雑な思考法』『別の考え方が発見*5』とも関連しますが,かけ算に関して,1個の問いにどのような複数の解答が考えられるか,児童に考えさせ,言ってもらい,比較するというのであれば,『算数研究で授業が学校が変わる―授業改革から学校改革へ (算数授業観改革シリーズ)』でより良い問題を提案しています.山梨のケース,新潟のケースで書きました.

*1:トリアージ論争については『ブログ論壇の誕生 (文春新書)』で書かれています.かけ算をめぐる論争,はたして活字になるのでしょうか….

*2:『従来,教育評価と呼ばれてきたものは,期末テストや通信簿・指導要録における成績評価のように,ある期間の教育活動の締めくくりとして,その間の教育成果を把握し位置付けようとする「総括的評価」であるか,あるまとまりをもった教育活動の開始前に,選択的な受け入れや配置などの目的でなされる入学試験やクラス分け試験と言った「事前的評価」であった.しかし,教育活動自体の改善を第一義的にはかっていくためには,教育活動の途上におけるさまざまの評価活動が必要となる.これがブルームらによって強調される「形成的評価」である.』(梶田叡一: 教育評価, pp.39-40.)

*3:直後に追記,4月23日に一部修正:これで正解したら,“「1つ分の大きさ」×「いくつ分」=「全体の大きさ」を使って式を立てることができる”に関してはOKだろう,と,見きわめの材料に使うわけです.もし正順・逆順の問題すべて対して,問題文に現れる数字を順に取り出してかけ算にしていて,逆順のものにはトランプ配りを主張する子がいれば…仮にその判別がきちんとできているとしても…答案資料から,“「1つ分の大きさ」×「いくつ分」=「全体の大きさ」を使って式を立てることができる”に関してはOKとしていいのか,気になります.当該の児童-教諭の間の信頼関係にとどまることなく,担任の先生による評定が,通知表その他の形で,保護者や上の学年の担任に示されることにも,注意しないといけません.

*4:そのような指導方法が不適切である,という批判は,可能だと思います.そういった方には,かけ算について何をどんな順番で学習させるのがよいか,代案をお願いしたいところですが.

*5:教諭の指導経験や授業準備を想像し,「正順」「逆順」に注意して,教科書や問題集に収録されているかけ算の問題を見ていけば,『たまたまテストで別の考え方が発見されたら』は一般論としていいかもしれないけれど,今回ようなかけ算の問題については当てはまらないと言っていいでしょう.