まずは毎日新聞の記事から.
この記事はNAIST修了生・旧職員としても、また研究者としても励みになる
http://b.hatena.ne.jp/takehikom/20121009#bookmark-114598746
記事の中で,取り出したいのは次の部分です.
一つは、98年に米の研究者がヒトES細胞の作成に成功したこと。大きく励みになるニュースだった。
もう一つは、奈良先端科学技術大学院大の助教授の公募に通ったこと。「落ちたら今度こそ研究を諦めよう」との思いで応募した。「研究者として一度は死んだ自分に、神様がもう一度場を与えてくれた」。99年12月、37歳で奈良に赴任した。
2つの段落のうち,前者は,「ああ,アメリカは進んでいるなあ」ではなく「よし,自分のできることをしよう」と考えよう,ということだと理解しました.
後者はまったく個人的なことです.私がNAIST(奈良先端科学技術大学院大学)に在籍していたのは1993年4月から1999年3月までの6年間で,内訳は,学生5年と助手1年です.その後しばらく,年1回のペースで,最後の1年にお世話になった研究室へ足を運んでいましたが,山中先生とは研究科が違うので,おそらく,すれ違うこともなかったでしょう.
次は読売新聞です.
会見要旨ですので,どこを切り取るかは別にして,新聞社の創意工夫は出しにくく,言い換えれば山中教授の「思い」がにじみ出た内容になっています.
ここに,「うむっ?」と思わせる,はてブのコメントを見つけました.
id:lingvisticae ノーベル賞やオリンピックの度に蔓延する気持ち悪さ。国の支援を受けたから「日本という国が受賞」。よい研究をほめる(にしたって学術の権威主義化だが)ことにどうして国単位の争いが必要になるのか。
はてなブックマーク - 山中教授「まさに日本という国が受賞した賞」 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
「日本という国が受賞」は,感謝の表現形態の一つだと,私は認識しています.
無茶かもしれませんが,山中教授の立場になってみます.受賞の連絡を受け,限られた時間で,会見で何を話すかを考えてみるなら,基本は「誰の,何に対して感謝するか」なのです*1.公の場で,自分ひとりの手柄だと言うわけにもいきません.多方面への感謝の表現は,関わった人と,受賞を共有できる機会となるのです.「国民の皆さん」もです.
ところで,それとは別に,「研究」そして「国単位」で連想するものがあります.国際会議です.8月のギリシャ行きでは,予稿集のPreficeに,どこの国から投稿があっただとか,採択は日本から何件,ギリシャから何件といった形で,いわばランキングを含む国の情報が書かれていました.
だけれどそれは,「国単位の争い」を意味しません.その記述は,多くの国からの投稿のおかげで,予稿集を発行し,インターナショナルなカンファレンスを開催することができました,みなさま感謝します,ととらえるほうが,自然です.
そのような「感謝」「ほめること」は,会議の各セッションの座長挨拶,また会議のクロージング時のエディタ(プログラムチェア)の挨拶でも,多かれ少なかれ目にすることになります.私自身は,今年よりも,4年前の座長経験の際に,人や場の大切さを,強く思う機会を得ました.
その一方で,コメントにある「学術の権威主義化」もまた,見過ごすことはできないように感じます.そこについては,受賞するしないを問わずパブリッシュされた膨大な論文と,必ずしもそこまで行き着かなかった実験や議論や着想があったわけで,その上に,毎年ほんのわずかの研究成果そして研究者が,ノーベル賞その他で華々しく報じられているのだな,と思うようにしています.