わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

A-510


この部屋でかつて仕事をなさっていた先生の,思い出話を書くことにします.
R先生と呼ぶことにします.某年4月,助教授として着任し,5か月間だけA-510を居室としました.教官個室を持てるのは教授・助教授・講師でした.当時助手だった私は,学生室の隅を仕事場としていました.
R先生は私より6歳,年上でした.私はNAISTにて学生を5年間,助手を1年間勤めてから,R先生より1年早く,今の大学に移りました*1
最初に顔合わせをしたとき,ともに大学院生で,私はM1,R先生はD3でした(学年差と年齢差については後述します).4月末に,計算論的学習理論の論文紹介を聴く機会を得ました.D2までで博士論文(D論)にする主要な成果を挙げており,計算論的学習理論は,新たな研究テーマの発掘であったのを知ったのは,もっと後のことでした.
指導を受けていた教官の事情などもあって,NAISTにR先生の座席もありましたが,正式な所属はまた別の大学でして,そこで学位を取得しました.
R先生のD論審査もパスし,あとは学位授与,そして翌月からNAISTの助手に着任,というときに,交通事故に見舞われました.研究室から自宅へ,バイクで帰る途中の信号待ちで,飲酒運転の車に横からぶつけられたとのことです.数か月間の入院生活そして休職を,余儀なくされました.
時計の針を,R先生の本学の出来事に進めましょう.大学教官(今は教員ですが)は,こうできそうならやってみようと,新たに切り拓く性格か,そうなっているならそれでいいやという,保守的な性格に分かれがちですが,R先生は私が見る限り前者でした.研究ではないのですが*2,学内,教職員向けのレストランで当時,「焼飯・冷麺セット」というメニューがありました.それと別に,大盛りは100円アップです.
そこでR先生は何をしたかというと,「冷麺・焼飯セット.両方とも大にしてください」と頼んだのです.200円アップです.私も付き合いました.以後,この頼み方は「大々(だいだい)」と呼ばれるようになりました.
R先生は大の阪神ファンでした.阪神が優勝した年,よく甲子園球場に足を運び,それで体育の単位が取れず教養を留年したとのこと.さて,上で,はじめはM1とD3と書きました.普通に進めば4歳差ですが,プラス2歳は何かというと,1年分はこの件です.あと1年は,私は飛び級入学をしたからです.
関西の阪神ファンは,アンチ巨人でもあります.「体育と阪神の応援やったら,阪神をとるやろそら」「巨人が1位で阪神が2位よりも,阪神が5位で巨人が6位の方がいい」は,私と近い年代の関西人なら,もしかしたら共感できるかもしれません.
かと思うと,R先生は私と同じく,とくに企業経験がなかったはずですが,就職活動に関して「10人から1人を選ぶときと,10人から1人を落とすときとで,(10人の中にいる自分の)行動が異なってくる」とおっしゃったのには,なるほど納得でした.
R先生が学生室そして私の仕事場に来ることの方が,私がR先生のA-510へ行くことよりも明らかに多かったのですが,お部屋に入ったときの記憶もいくつか,よみがえってきます.
あるときに入ると,「教務委員って,大変やな」と漏らしていました.教務委員は教授または助教授(今は准教授)が担当するのが慣例となっており,私はまだですが,業務の煩雑さは外から見ても明らかです.着任早々の要職で,精神的な負担もあったかもしれません.
7月に入ったとき,やけに冷房が効いているなと思い,尋ねると,「19度」とのこと.R先生は涼しい顔です.これまた,現在では考えられません.
代理授業の経験も,書いておきましょう.当時学部の1年生300名を対象とした必修科目「システム科学概論」を,ある教授とR先生が分担していました.ある回はR先生が(教授も)出張とのことで,私が授業を受け持つことになりました.といっても講義ではなく,あらかじめR先生が用意しておいた問題を学生に配布し,解かせ,出来上がったら提出して退室してよいという流れでした.授業中,この答案で良いのかと問い合わせる学生が出たので,じゃあ見ましょうかと応じたところ,大講義室の中で学生の列ができてしまいました.答案を取りまとめて渡した際,そこまでせんでもよかったのにと言っていたのは,おつかれさまの言い換えと思っています.
8月の中ごろに,ご本人にとっては小さかっただろうけれど,私にとっては心に残る出来事がありました.R先生が車を運転していて,加害者の方になったというのです.「お釜を掘る」というタイプで,R先生は「いや大したことないよ」とおっしゃったのですが,バイクで事故に遭われた際の状況を聞かせてもらったときとのギャップ---受けた被害はより大きく感じ,与えてしまった加害はより小さく感じる---に,驚いたのでした.

8月たしか29日に,昼食を一緒にとり,今日は薬をもらいに行くので早めに帰るとおっしゃっていたのが,最後となりました.一人暮らしのマンションで倒れて帰らぬ人となり,葬儀も実家ではなく和歌山市内でとり行われました.

研究室の教官・学生への連絡では,あえてSubjectに何も書かずに出しました.
ここで言う研究室は大括りで,実態としては私のいた学生室内に,教授と私で1つの研究室,またR先生は1つの研究室を構え,座席やPC,研究用の機器などがありました.また情報提供などは,1つのメーリングリストで行っていました.研究室配属は当時,3年前期からでしたが,R先生には4年生が1名つきました(この学生はこちらの研究室で受け入れ,無事に卒業しました).
他学科の,「システム科学概論」に受からないと卒業できないという4年生による,少しいだちの見えた問い合わせ*3には,こちらから事情を伝え,あとは教授どうしで解決が図られました.
A-510にあったR先生の物品を,大学のもの,個人のものと分類・整理し,明け渡されてからは,客員教授の先生による一時使用のあと,数年経って私が使うこととなりました.部屋に入って,カードキーを差し込めば照明とエアコンが使えるようになるのですが,カードキーがわりの猫のテレホンカードは,R先生の,また別の一面を物語っています.

(最終更新:2014-12-01 朝)

*1:この異動は,勤務する国立大学の変更だったため,事務的には「配置換(はいちがえ)」と呼ばれていました.

*2:とはいえ研究で「これまでと同じことをしていればいいや」の考え方では,新たな成果は生み出されないのですが.

*3:事情が2つあって,4年生といっても3年編入でしたので,編入直後は履修の勝手が分からなかったと想像します.もう一つは,R先生担当分でこの学生の試験および追試験は思わしくなく,8月たしか30日か31日に追々試験を実施する予定だったのでした.