学会(9月7日)の午前・午後のセッションの間に,富山城を散策しました.「大学前」から,最寄りの「丸の内」まで,市内電車で4駅です*1.堀を隔ててお城より西側,ラーメン一心 丸の内店でつけ麺を食べてから,しっかり歩きました.
敷地内をめぐってから,天守閣はどうなっているのかなと,入口を見たところ,「富山市郷土博物館」となっていました.
もう少し,外を歩いていると,この博物館についての看板を見かけました.
縦書きで,右には大きく「国登録文化財」「富山市郷土博物館(富山城)」,左端には「平成二十七年三月」「富山県教育委員会」「富山市教育委員会」とあります.お城ではなく博物館の紹介なんだなと思いながら読み進むと,はじめは昭和29年に開催されたという,富山産業大博覧会と,この郷土博物館建設の経緯でしたが,途中(第1段落の中ごろ)は,以下のとおり,この「富山城」が作られた状況の説明となっています.
その際,記念の恒久的建物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。旧本丸鉄門跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されており、戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。
看板をすべて読んでから,気になるのは,なぜ他の「現存天守を参考に設計され」たのか,そして,富山城オリジナルの天守閣はどうなのか,です.帰宅してから調べると,「江戸時代には天守はなかった」と思うのが良さそうです.
以下の文章が明快です.
富山前田家の当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を得ていましたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守台は築いたものの実際には天守は築かれなかったと思われます。このような例は実は他の城にもあり、主に財政難からと考えられます。
史跡 富山城
3基の櫓については史料がなく、やはり建てられなかったと見るべきでしょう。
wikipedia:富山城の江戸時代の説明にも,「...新たに城を築くつもりであったが、藩の財政がそれを許さなかった...」とあります.それ以上に興味深いのは,昭和時代のところで「模擬天守」がリンクされていて,その先(wikipedia:天守)には「戦後初の模擬天守は、「富山城」(富山県富山市・RC造・1954年(昭和29年)築)」と,言及がある点です.
上でリンクした史跡 富山城のほか,越中富山城や富山城の観光にも,「模擬天守」のことばが出現しています.
デジカメに収めた,博物館(富山城)の看板全体を見直すと,富山城の歴史ではなく,戦後の富山城の説明になっていることにも気づきました.「現存天守」はあるけれども「模擬」の語は使わず,また「戦後の天守閣建設のさきがけとなりました」とあるのにも,とりあえず納得です.
市内電車で大学前の1つ隣が「富山トヨペット本社前」と,企業名になっているのは,すごいなあと思ったものですが,この記事を作りながら調べ物をしていると,停留場名の変更は,上の看板が建てられたのと同時期,平成27年3月だったのですね(wikipedia:富山地方鉄道富山市内軌道線).
(リリース:2016-09-11 朝)