わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

表現力向上の授業

間違いにこだわらないこと
いずれの授業にしても,終わって数年経つと,先生が具体的に何を教えたのか分からなくなる.他の授業と混同したり,大雑把な内容しか思い出せなかったりするからだ.
しかし,私はある授業のことをありありと覚えている.日本語の授業で,その日のテーマは「音」だった.学生がそれぞれ好きな音を選び,それを日本語で描写するのに必要な言い方を用意し,同級生の前で発表した.音の描写は普段話さないため,自分の母語でも上手にできるとは限らない.だからこそ,先生は我々にチャレンジさせ,洗練された日本語を身に付けさせようとした.
その時,私は波の音について話した.「浜辺に行くと,波がすーと上がってきて,すーと返っていく音が聞こえる.しかし日が暮れると,波はますます引き上げられ,音が荒々しくなる.夜が明けると,また緩やかに海岸に打ち寄せてくる.大海から運ばれてきた貝殻があちらこちらに散らかって,太陽の下で眩しく輝いている.持ち帰った貝殻を耳元に当てると,いつでも波の音がまた聴けるのだ」と.
私が具体的に覚えている授業は指で数えられるぐらいだけれど,この授業はその一つである.「これは美しい日本語だ」と思われないかもしれないが,あれほど難しい話題について,あれほど外国語で語れた自分に驚いた.「外国語の先生は,学生の些細な間違いにこだわりすぎて,難易度を必要以上に下げることがある.しかし,目標を高めれば,学生はもっと頑張って,速く進歩してくれるかもしれない,そういうことを忘れてはなれない」と,先生は授業の最後に言った.
ある学生は,先生から高い目標を与えられて達成できないかもしれない.しかし,それを目指しただけでも,上達するだろう.
(カルチャーショック ハーバードvs東大─アメリカ奨学生のみた大学教育─, pp.34-36)

これを読んで,考えるのは,10月からの担当講義,Cプログラミングの座学です.
これまで文法を重視していたのですが,今年度は,文法のいくらかは自習するか,教科書を参照してもらうことにして,授業ではプログラム読解にもう少しウエイトを置きたいと思うようになり,授業内容や評価方法を検討しているところです.
ただし,サンプルコードを印刷して与え,学生に自由に答案を書いてもらうというのでは,萎縮して書けない学生もいるかもしれませんし,多様な答案が来たときにそれを評価して各学生に(または授業で)フィードバックできるかという問題もあります.
プログラム読解とは,プログラムを漫然と読むのではなく,ソースファイル全体,それぞれの関数定義や変数・型などの宣言,そしてコードの1行1行まで十分に理解し,その中から重要なものを取り出し,他の人に分かってもらえるよう日本語で表現することです.その能力が不十分なうちに,半期の授業で多数のコードやコード断片を見ても,学生には「大雑把な内容しか思い出せ」いまま,春休みにその大部分を忘却するのでは,2年の,より高度なプログラミング授業で苦労するのではないかと考えたのです.
この方針でいくと,すべきことは2つです.一つは,プログラム読解の例を自ら示すこと.実のところこれまでも,授業で,すなわち口頭でその作業をやっていたのですが,自分も学生も,その場で忘れてしまっていたように思えます.提示する全コードを,日本語に翻訳するというのは,学生の学習の妨げになるとしても,絶対に理解してほしいものについて,日本語化し,復習に役立ててもらう価値はありそうです.
もう一つは,レポートや試験で,読解し表現することを出題していくことでしょう.当然,解きっぱなしではまずく,良い表現はほめ,まずい書き方があれば指摘し(必要に応じて代案を提示または示唆し),学生に返すことが不可欠となります.