わさっきhb

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習熟度別

教育思想の分類のある意味続きです.本の内容を手っ取り早く知りたい方は,ぷに氏の部屋:日本の教育格差をご覧ください.
その本で強く興味を持ったことのもう一つは,「習熟度別」です.

学力の遅れている生徒を特別な別枠で教育する方法は,習熟度別教育の実行といってよい.日本の教育界は日教組などを中心にして,飛び級や落第を含めた習熟度別教育には根強い反対がある.子どもを学業成績で区別して扱うのは,平等の精神に反するとの意向が強いのである.
しかし,アメリカの政治学者ジョン・ローマーはマルクス主義者でありながら,学力の低い子を特別に徹底して教えることは,「教育の機会平等」の精神に合致すると主張しており,ある意味,合理的な考え方ではある.学力の低い子の学力が高くなることは本人にとって意義があるだろう.ただし,能力・学力の低い子が屈辱を感じないような手立てを講じることは必要であり,その点では実行において難しさがともなう.したがって,やはり実際には慎重にならざるをえないのであろう.
(日本の教育格差 (岩波新書), p.113)

pp.199-203にも,能力別・習熟度別学級編成についての記述があります.
読んでいて,引っかかるのは,「あなたは能力・学力が低いのだから,習熟度別教育によって効率良く,高めてあげよう」という教育者側の意識です.ただし本当に,そんな意識があるのかは分かりません.行間から,そう読み取れるというところです.この意識は,著者の信念や経験によるのか,習熟度別教育を実施すると発生するのが避けられないのかについても,気になります.
考えてみると,「屈辱」以前に「能力・学力の低い子」の判定が容易ではなさそうです.
思考実験を試みてみます.『灘高校では,戦前の旧制・灘中学の時代,成績順に毎年学年編成を実行していた.一番成績の良い組はA組,二番目はB組,三番目はC組というように,成績の同じレベルの生徒を一つの学級に集めたのである.しかも毎年,学級編成を行っていたのである』(p.201)に関して,ここでの成績というのは試験の合計点なのかという疑問です.もしそうであるならば,次に生じる疑問は,特定の科目の点数が低いが,それ以外は満点で,B組に入った生徒は,学校で何を学べるのかという点です.また逆に,特定の科目だけ満点で,残りはからっきしという生徒は,おそらくC組に入るのでしょうが,その科目に関する本人の特性はどうなるのでしょう(生かされないでしょうね).
テストの点数の高低で,解答者間の能力を比較できると仮定しても,満点の人どうしの能力は比較できない,というのは,昭和・平成の全国学力テストでも言えることです.また上記では,能力別学級編成にする根拠の「成績」が,いくつかの科目(の試験)の「合計」と仮定しましたが,現在,特定の科目(例えば算数・数学)だけ習熟度別にしようとしたとき*1にも,その科目の中でもある分野は強いが他の分野は弱い(例えば,計算はしっかりできるが図の問題が苦手)といったことに対して,問題なく運営でき児童生徒らも適切に学習できるのか,という疑問も出てきます.児童が,計算はできるけれど図形がダメなのだけど,習熟度別学級編成を決めるためのテストの点数だけで,真ん中のクラスに入って,能力向上が期待できるのか,です.
外を当たってみますか.

習熟度別学習(しゅうじゅくどべつがくしゅう)とは、学校などで授業の際に児童・生徒をその教科の習熟度に応じて、複数の学級をいくつかのクラスに編成しなおしたり、1つの学級内で別々のコースで学習するなどして、学習の効率を上げようとする授業法である。公立学校では「学力別」や「能力別」という表現はされず、専ら「習熟度別」と呼ばれる。また、クラス名をあえて優劣がわからないように名づけるなどの配慮が行われていることもある。
(略)
日本では一時期、「能力別学習」の名前で教育が行なわれていた。能力別、学力別、習熟度別を分けて考える人もいる。

習熟度別学習 - Wikipedia

教育は学問であり,その一方で教育は政治なんだなというのを,再確認しました.

昭和30年 1月 『能力別学習』(石川勤著)(27年12月全国都道府県教育委員会に依頼して、過去・現在の実施高小・中・高445校の推薦を受け、アンケートを行ない、4県を除き、計205校(うち小学校78校)の回答を得ている。そのうち、139校が劣等感と望ましくない優越感のため指導上困難を来したと報告。その報告を30年代に重要な参考文献として論者に引用され、能力別編成を消極的に受けとめる論拠の1つとなった1面が認められる。)
昭和30年代 能力別編成をタブー視。(3つの原因)
  35年の「所得倍増計画」→経済政策的教育観にたつ能力主義的教育政策
  20年代の学校規模の学級編成のレベル→全国規模の学校・学科の再編成へ。
  一流から底辺校までの序列化(能力別指導、能力別学級編成をする必要が薄れた)
  文部省から能力別編成や分団学習を推進する言葉は聞かれなくなった。

小学校における能力別学級編成

学生のレポートのようです.3つの原因の3番目すなわち序列化による必要性の低下が,原因として大きそうで,ここに日教組などが関与したというのは考えにくいです*2

だから、学力向上のために、能力別に教育すべき、と私は考えます。アメリカでは小学校からある科目の同じ授業時間内で一人一人違う課題を与えられ、個人の理解度に応じた勉強をさせるのは当然のように行われています。ある科目が得意で先に進んでも、苦手な別の科目で進度の遅い課題をこなす、というのも普通のことです。
個人と科目によって理解度も達成度も様々で、違って当然なんだから、個人のその時点での学力に応じた能力別教育・指導が施されるべきなのです。それなのにどうして皆が皆、横並びで下のレベルに合わせた学力に付き合わされなければならないのでしょうか。
勿論、あまり勉強が出来ない子供の学力を最低限のレベルまで引き上げる教育は必要です。でも、それに付き合わされていると、出来る子もそこから先に進みにくくなり、結果として全体のレベルを引き下げられているのが現状です。出来る子と出来ない子、個々のレベルで勉強できる環境になれば、自ずと学力向上につながるのではないでしょうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/okadamomo/60548125.html

アメリカの小学生の話は,上で自分なりに思案したことと重なります.ただ残念ながら,エントリ全体に対しては賛成できません.「個人のその時点での学力に応じた能力別教育・指導」をするための筋道やコスト意識について,説明がなく,ブログ主個人の学習経験に基づく机上の空論にしか思えないからです.もし,ブログ主さんが学校で学んでいたときに私が教員だったら,学内外の教室以外のリソース,例えば図書館を活用することをアドバイスしたいところです.
教育について書き散らかしたら,いつものように,自分のことを振り返ります.
大学での授業履修というのは,小学校・中学校と違って学生各人が,その能力(と履修要件)をもとに受講申請をし,単位を修得すればいい*3ので,大学教育に習熟度別というのは相容れないようにも思います.しかし,学科でプログラミング教育を関わっている限り,できる学生と残念な学生との間の,能力の違いというのはいかんともしがたい状況です.
底上げを図るため,2006年度後期に,1教員当たり数名を受け持って補習指導するというのに,加わりました*4.2008年度以降は,前期に補習的な演習科目を担当しています.また「プログラミング能力の高い人を伸ばす」ための指導は,システム工学自主演習という科目で行えばよいというコンセンサスが得られています.
講義は,できる学生にもつらい学生にも共通ですが,多種多様なトピックを提供して,学習意欲の定着を試みています.これまでの「授業」カテゴリーを中心に,いくつか見直してみました.

*1:見聞きしたことのある小学校では,算数の一部の授業だけ,習熟度別にしているそうです.学級の中で2種類のコースに分けて,名前は「ぐんぐんコース」と「じっくりコース」だったかな確か.

*2:本エントリ冒頭の引用について,日教組への取り上げ方が表面的かつ悪意的と,感じています.

*3:授業を受けないのも学生の自由…と教員が言ってはいけませんね.

*4:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20061014/1160833616