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科研費申請に,なんでこんなに苦労するんだろ

自分のしたいと思う処理をCやRubyなどで書くのと同じように,申請内容を科研費LaTeXで作り保守して最終提出までこぎつけるのは,programmerとしての楽しみがあります*1.もちろん,通常のプログラミングでは(正しく)動くことに主眼を置くのに対して,科研の申請では,形式的に適切なだけでなく,審査の結果採択を得られるような内容にすることも求められるのですが.
当雑記でも,それらの活動をもとに論考をしてきました.思い出せたのを,並べておきます.

さて,先月の破線対応の件,そして本日と,楽しみながら書けたのか,自分の苦労を,将来の自分を含む読者に積極的に伝えたかったのかというと,実のところそうとは言えません.
その理由として,要件の曖昧さと,一発勝負である点が,指摘できるのかなと考えます.
「要件の曖昧さ」というのは,研究機関の事務の考える要件と,記入要領などで規定されている内容とに違いがあるということです.ただ,これについては,多数の申請書を見比べた上で指示を出している,事務方の意向に従うべきです.事務の指示に従わずに記入して,審査時に形式不備で門前払いされる可能性のほうが,事務の指示に従って記入して以下同文よりも,高いと言ってもいいでしょう.もし,どこかの大学で,ある指示に従って提出した申請が,数十か数百という単位でみな形式不備扱いとされるなんてことがあったら大事件ですが,これまでそういう報道もありません.そういうことが起こらないように,研究機関と取りまとめ側(学振?),大学間ネットワークが,うまく機能していると信じています.
「一発勝負」というのは,論文投稿と比較して思いついたものです.論文投稿に関して言うと,査読モノなら,コメントを受けて訂正したり書き足したりできます.カメラレディ原稿における不備は著者の責任というのが確立していますし,どうしてもというのであれば著者側でブログやWebページだとか,口頭発表の際や懇親会でだとか,次回の(または別の機会の)学会発表で名誉回復をする余地があります.それに対して科研の申請は,投稿完了としてしまうと,やり直しが効きません.もちろん門前払いにならないよう,事務も各申請者も入念に見直しをし,おそらく審査をする側でも少々の融通があるのでしょうが,申請する側はその融通を期待するわけにはいきません.そうして,形式面での事務の指示に即反応し,科研費LaTeXを使って素直に書けないときには,掲示板だけでなくブログやTwitterなどで,読むのも書くのも楽しくない,コミュニケーションが繰り広げられていくように感じるのです.
先日のエントリに対して,科研費LaTeXの作成者である山中 卓さんよりコメントをいただき恐縮至極なのですが,あいにくそれでも依然として,掲示板に書いて多くの人に参考にしてもらう(流布されるにせよ訂正されるにせよ)のには抵抗があります.そこには“よそ行き”の表現が求められているように感じるからです.申し訳ございませんが,今後もこの種の違和感については,LinuxEmacsを使っているときと同じように,“自分が見かけて,行動したこと”を主体としてブログ上に書いていきたいと思います.

*1:アウトプットだけでなく,コードの保守性や可搬性というのにも,気を配りたいものです.