- 蟹江幸博, 佐波学: 数学と教育の協同―ハイマン・バスの挑戦―, 京都大学数理解析研究所講究録, Vol.1657, pp.23-73 (2009). http://ci.nii.ac.jp/naid/110007131118; http://hdl.handle.net/2433/140889
おそらく紀要論文に位置づけられると思います.比較的読みやすく,ショーン数が数学的にどのように記述できるかは,ネタばらしとなる脚注を見るまでに,頭の中で描けていました.お堅い論文かというと決してそうではなく,算数の教育や学習に関心のある人なら,労せず読めると思います.授業ビデオを文字にしているところで,発言者が頻繁に変わっており,そこだけは小説のようです.
それから,1.3節にある35×25の筆算については,自分がこの種の事例紹介を書くとなったら,どこを間違えたか,どんな方法でその結果に到ったのかを,明示しておきたいなとも感じます.p.28*1の誤答の左側は,35×20を書くときの位取りのミスでしょう.右側は,35×5と35×2を計算したときの繰り上がりミスでしょうか.
非標準的な計算法(p.29)の左側は,35×25=5×25+30×25としています*2.右側は,35×25=5×5+30×5+5×20+30×20ですね.
ただ本題は,数学と教育の協同,あるいは数学者と教育実践家との協同です.「協同」はあまり使わない言葉なので,辞書で確認すると,意味の中に「共同」とも書かれていました.「協力」もまた,類語になっています.
「協同」の真骨頂は,次のところ.
ある日, バスがボールに, あるビデオテープがたいへん魅惑的だと報じた. 彼がそんなに興味を感じたものが何であるのか, ボールはぜひ聞きたいと返した.
しかし, 彼は答えない.
なぜかと尋ねるボールに, バスは言った.
「だって, あなたは何でも正しいことにしてしまうんだ」
頭のなかに閃光が走り, ボールは悟る. 「ここだ, 分析や注解というものに対する二人の考えの違うところは」と.
ボールは述べる.…私が彼(バス)に望んだのは, 題材を調べていて目についた数学的な主張を見える形にしてくれることであったが, 彼が探していたのは, 数学的な誤りであり, 欠損であり, 失われた好機だったのだ. これは, 二人の仕事において重要な瞬間だった. ここで, 分析や注解に向き合う姿勢についての,人の間にある基本的な差異がぶつかりあったのだ.
(p.42)
バスが数学者,ボールが現場教師(教育実践家)です.推測ですが,教師は,たとえ児童が授業で,間違いをしていると即座に気づいても,「どうしてそうなるの?」と尋ねます.対話して,言葉を引き出していきながら,「そうね」と共感します.それから,正解を得るにはどうすればいいかを確立していきます.その際の教師・児童の対話は,必ずしも一対一ではなく,先生のコントロールのもとで,他の児童の発言が差しはさまれることもあるでしょう.
このとき,教師の言う「そうね」は,正しい答えに持っていくための,スイッチ*3となる言葉となります.そう言うのが,朝起きたときに「おはよう」と言う,通夜に駆けつけたときには「ご愁傷様です」と言うのと同じくらい,ボールにとっては当たり前のこととなっているわけです.
児童によるつまづきと,それに対するボールの対応---必ずしも「そうね」と言っているかは分かりませんが---をいくつも,ビデオ(もしかしたら実地でも)で見たバスは,「だって, あなたは何でも正しいことにしてしまうんだ」と言います.これによって,数学者(バス)の感じる魅力と教師(ボール)のそれとが異なることが,明らかとなったわけです.
「協同」を成功させるには,単にバックグラウンドの異なる者どうしが,目的やスケジュールを合わせて,たいていは別々に,ときには一緒に動く,というのでは不十分です.自他それぞれのバックグラウンドが何で,問題解決にどう作用するのかを,関わる人々が応分に知っておくことだと思います.
そういった相互理解を得るためには,実際に協同して何かを達成する(ときには失敗する)ことも大事ですが,ここでもまた,ノンフィクションやフィクションの事例・本を多く目にしておくことが,実地のための勉強になり,視野を広げて受け入れることに,つながるように思います.本が面倒なら,映画から,「認め合う」シーンを発見するのも,良さそうです.
「協同」とは一応別件ですが,数学と数学教育の違いが書かれているところにも,興味を覚えました.
数学教育は, 数学ではない. 数学教育は, 高度に専門的な数学の知識を基本的に使用する, 専門分野のひとつである. この意味において, 私の思うに, 数学教育を応用数学の一種と見なすことが有用となる. そして, 数学者が「応用数学としての数学教育」への貢献を望むのなら, 最初の課題は, 他の応用数学の場合と同様, 応用の対象領域における数学的な問題の性質, そして, この領域で有用ないし利用可能な数学的知識の形式を, 感覚的(sensitively)*4に理解することである. ([11], p418.)
(p.30)
バスの説くところは,「料理を習う最良の方法は, 練達の料理人の指導下で料理をしてみること」である. つまり, 教育の専門家一学校教員から教育の研究をしている人々まで一の支援を受けることに他ならない. そもそも,「数学教育というものは, 数学自身とは異なり, 精密科学ではない. もっと経験的で, 元来, 総合的(多分野にまたがる)なものである. その目的は, 知的に閉じてはおらず, 不確実さや不確定さが必然的に伴う人間というものを支援することにある. それ(数学教育)は, それ自身の, 明証さの基準, 論議や理論構築の方法, 専門的な論述等々をもつ, ひとつの社会科学である. それ(数学教育)は, 確立された研究の基盤をもち, そこから過去数十年にわたって多量に学ばれ続けてきている」のであり, 大学の数学者の教育的な仕事に寄与するのに十分耐えうる重要な新しい知識のプールが存在しているのだという.
(p.36)
自分ではかつて,次のように書きました.上記論文のほうが,やっぱり洗練されているなあと感じたのでした.
(5) 数学ではなく数学教育
2012年に「×」から学んだこと
「数学教育学」は,「数学」と別の学問として,確立しています.数学教育学を詳しく知りたい人は,[日数教2010],[杉山2012]をどうぞ.
2つの違いを,いくつか挙げてみます.「数学の論文」と「数学教育学の論文」は,異なります.したがって「数学者が読む論文」と「数学教育学に携わる人々が読む文書」も,異なります.とうぜん,「数学者の語彙」と「数学教育学に携わる人々の語彙」も,異なります.
しかし最も大きな違いは,次のことだと思います.数学(という学問)では,論文を書く人と,それを読む人は,対等であることを前提とします.一方,数学教育においては,問題を作る人と,それを解く人は,対等ではありません.
算数・数学(という教科.入試を含みます)では,出題者が,解答者の能力や学習事項も考慮した上で,問題文を作成し提示することになります.
「解答者の能力」「学習事項」のバリエーションを意識し,どのように問題を提示してそこから解決・学習をさせるかについては,数学(という学問)の知見のみでは得られません.
そこではむしろ,教材研究・授業研究(jugyou kenkyuu,[スティグラー2002])に代表される教師の活動や,診断的評価・形成的評価・総括的評価を含む各種教育評価の手法が,重要な役割を担ってきたわけです.
そういったことを無視し,「数学では…」「数学者は…」という言い方を根拠として,バツにするのはおかしいと語るのは,適切でないと考えます.
*1:ページ番号は,各ページフッタ中央部の通し番号ではなく,ヘッダ右方のものを使用しています.
*2:標準的には「35に5をかける,35に2をかける」という手順を踏みますが,ここで「35に5をかける」の筆算では,5×5と5×3というように,被乗数と乗数を反対にしてやっているのではないか,という疑問を持ちました.たとえば,http://syosanke.cocona.jp/kakubukai/kenkyutyosaclub2/mondai/mondai/mondaiH23/3nenn/3-04-kakezannno.pdfのp.3-4-5(PDFの通し番号ではp.5)の筆算の中に,「20×3」と「三二が6」が見られます.とはいっても,乗法の交換法則から,こんなところで立ち止まらなくてもいいといえばいいのですが.
*3:関連するのはあなたは「批判者」ですか?「学習者」ですか? ~本『QT 質問思考の技術』 - ライフハックブログKo's Style
*4:引用者注:関連するのはhttp://b.hatena.ne.jp/takehikom/20110507#bookmark-6597170.本文は404 Not Foundになっているのが残念.