わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

常識を認識し,乗り越える

常識は向こう側

大津 それで、この金谷さんの『英語教育熱』って本は「加熱心理を常識で冷ます」っていう副題がついているんだけれど…。常識っていうか、理性なんですよね。まあ、理性じゃ冷めないわけですよね。多分、「さます」は「冷ます」じゃなくて…。
江利川 覚醒のほう。
大津 「覚ます」。
斎藤 ああ、なるほどね。
江利川 日本人は一種の集団催眠状態になっていますからね。英語病という。
鳥飼 どうやったら目を覚ませるか。常識はだめなんですよ。だって、今…。
江利川 「常識」は向こう側ですから。
鳥飼 学校がだめだから英語ができないというのが常識になっているから。
江利川 そうです。常識で。おこがましく言えば、やっぱり専門家がもっと発言しないとだめだと思いますよ。
鳥飼 それを諄々(じゅんじゅん)と説くのか…。
斎藤 そうなんです。
鳥飼 どうしたらいいんだか。
(『英語教育、迫り来る破綻』p.136)

常識や慣習を疑うきっかけを与えたい

高校生には、何となく「学校でしてはいけないこと」という先入観、既成概念があると思います。私は、生徒たちに、そういう先入観、既成概念に縛られてほしくないと思いましたが、ただ「縛られるな」と言っても何のことだかピンと来ないはずです。そこで、私は年に一度「トロピカルデー」という日を設けることを教職員に提案し、毎年実施することにしています。
トロピカルデーは、期末試験も終わり、夏休みも近づく、割とのんびりした日に設定します。その日は、「ヘソ出し、水着」以外はいかなる格好をしてきてもよいということにしています。その日だけ髪の毛をグリーンにしてきてもよいし、ピアスをたくさんつけてきてもよいし、着ぐるみを着てきても構いませんし、ウクレレのような小道具を持ってきても構いません。唯一のルールは「トロピカル」な格好であること(制服を着てきたい人は制服でも可)です。お互いに「どうしてその格好がトロピカルか」を言い合ってもらいます。教職員には、「その日はアホな格好をしたり、アホなことをした生徒ほど褒めてあげてほしい」と言っています。
このトロピカルデー企画が最善かどうかは分かりませんし、生徒すべてにこちらの意図が正確に伝わっているかも分かりません。しかし、こういう企画を通じて、常識や慣習を疑うきっかけを与えたいと思っています。学校行事を動かすのは生徒会ですが、生徒会をまとめる教員(生徒会部長教員)には、新しく面白いことに挑戦する気まんまんの二六歳の若手教員を抜擢しました(年功序列が強い教育界では異例のことですが)。
(『国際的日本人が生まれる教室』pp.242-243)

常識を乗り越えるには〜「かけ算の順序論争」から

いま,小学校では,「6人に4個ずつミカンを配ると,ミカンは何個必要ですか」という問題に,6×4=24という式を書くと,答えはマルで,式はバツにされます.
はじめて聞く大人はびっくりします.
でも,いま小学校では,かけ算は,(1つ分の数)×(いくつ分の数)の順序で書く,と教えられているのです.しかし,バツはおかしい,というのが社会の常識でしょう.この常識が学校では通用しなくなっているらしい.
(『かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)』まえがき)

「〜〜が常識だ」という主張を克服しようとなったとき,最も基本的なアプローチは,「〜〜」の部分を徹底的に見直すことです.「〜〜」の設定が不適切であるとか,非常に限定された範囲でしか成立しないとか持っていけば,常識論の説得力を失うわけです.
すぐ上の引用については,気になったことを末の子が小学校を卒業しても,私はかけ算のことを考えているのだろうかで検討しています.2年前の話です.その後,どういった中でマルやバツがつけられるのか(教育評価),マルやバツをつける段階すなわちテストより前に,授業ではどのように学習しているのか(問題解決学習,授業研究),海外ではどうなっているのか(国際比較)を見ていくと,『かけ算には順序があるのか』は何に依拠して何に依拠していないか,また自分はどうなのかが,明瞭になっていきました.
一つ,情報整備をした成果を書いておきましょう.日常生活の話です.物品の数量表記において,海外では「1つ分の数×いくつ分の数」も「いくつ分の数×1つ分の数」もあるけれど,いくつ分の数は常に単位なしで記されているというルールに気づきました.日本はというと,「1つ分の数×いくつ分の数」の形ばかりです.そしてかなりの割合で,「1つ分の数」「いくつ分の数」いずれにも単位がつきます.総数(総量)の単位は,1つ分の数に付く単位と同じとなります.
「1.4kg×10個」と書かれていたら,その総量が14kgであって,14個でも14kg個でもないと認識できるのはなぜか,あるいは,2つの数を交換して「10kg×1.4個」と書くことができるか,などに注意しながら,算数教育について国内外の定評ある書籍と照らし合わせると,なるほど納得と思えるときがしばしばありました*1
常識論に話を戻すと,いわゆるyes, butの考え方で「多くの場合そうかもしれないが,常にそうかというと,そうでもないのでは?」とすることもできます.実際,その問題意識で行動しているのが,『国際的日本人が生まれる教室』のトロピカルデーと言えます.
「〜〜が常識だ」という主張を克服する,また別のアプローチとして,それと対立するような,何らかの共通認識を,持ってくることも考えられます.その際,「常識」という言葉を使わないのが肝心なところです*2.『英語教育、迫り来る破綻』について,本記事冒頭に引用したのは,このアプローチを見せています.「やっぱり専門家がもっと発言しないとだめだと思いますよ。」を受け,引用のあとは,「声を上げるべき人がいない」という小見出しで,トークが進んでいきます.

*1:簡単に種明かしをしておくと,「1.4kg×10個」は,1つ分の数が連続量,いくつ分の数が分離量となるかけ算です.ある文献では,このタイプにequal measuresという名前をつけています.そうでないタイプのかけ算もあります.小学校では現在,2年で分離量×分離量,4年で連続量×分離量,5年で連続量×連続量を学習します.分離量×連続量が連続量×連続量に含まれており,連続量×分離量が計算できたら分離量×連続量も計算できるとしないことは,かけられる数とかける数を区別してかけ算の意味を学習していることと,密接な関係があります.

*2:実は前文の「共通認識」は「常識」の言い換えです.英語にするとどちらにもcommonが出てきます.