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統計的推測〜リンゴ,サンマを例に

考えることの科学―推論の認知心理学への招待 (中公新書)

考えることの科学―推論の認知心理学への招待 (中公新書)

著者*1と出版年月と,あと初めの章にウェイソンの選択課題*2が書かれていたことから,購入して,読み進めています.
第4章に「3 統計的推測――推定と検定のロジック」と題する節がありまして,母集団だの標本だの,帰無仮説だの棄却域だの,太字になっているのですが,新書ということもあり,読者にとってイメージしやすい例がいくつか挙げられています.
節の出だしは次のとおり.

A「イギリス人は、日本人より背が高いね」
B「そうとは限らないよ。リンゴ・スターは君や僕より低いだろ」
A「……」
どこかかみあっていないこのような会話は、なぜ生まれるのだろうか。A氏も「すべてのイギリス人の背が、すべての日本人よりも高い」とは思っていないに違いない。「分布の重なりはあるが、平均的に見れば、イギリス人の方が日本人より高い」ということが言いたかったはずだ。ところが、B氏は、「一つの反例をあげれば命題は否定される」とばかりの反論をしている。このように、統計的な言明を論理命題と解釈して、一つの反例を挙げて反論するという議論のすれ違いは、日常生活でよく見られる。
(p.71)

なるほどです.自らB氏のような発言をしないよう,気をつけたいですし,またB氏のような発言があったときにどう対応すべきかも,考えておかないといけません*3
統計的検定,あるいは統計的に有意であることを示す流れにおいて,「背理法」が使われていること,またアリバイ(現場不在証明)は背理法による推論だというのも,まあそう言うとらえ方ができるなあと読み流し,その次の,サンマの推論に再び,目が留まりました.

統計的検定の場合には、完全な矛盾が導かれるわけではない。「帰無仮説のもとでもそうしたことは生じ得るが、その確率はきわめて低い」ということである。そこで、結論も穏やかなものとなり、「危険率五%で帰無仮説を棄却する」というような言い方になる。統計的に棄却されても帰無仮説が依然として正しい可能性は残されているし、逆に「有意でない」という場合でも、帰無仮説が正しいとは言い切れない。このたぐいの推論も実は、日常生活で行なっているのである。

置いておいたサンマを食べてしまったのがうちのタマだとすると、こんなにガツガツと夕食を食べることはあまりありそうにない。どうもタマではなさそうだ。

このような推論をするときは、サンマを食べたとしたときのタマの摂食量を分布として思い描いており、実際にタマの食べた量が棄却域にはいったため、タマの疑いが晴れたことになる。ただし、タマがサンマを食べたあとの摂食量の分布というのが想像でしかないなら、この推論はあてにならないことはいうまでもない。ごはんとケーキは別のおなかにはいる子どもも多いのだから、サンマとキャットフードが別のおなかにはいるネコがいてもいかしくはない。
(pp.75-76)

じっくり読んだのですが,「実際にタマの食べた量が棄却域にはいったため」から「タマの」は取り除けば,全体の意味が通ります.
ここでは,帰無仮説などの用語や,背理法による推論のほかに,「分布として思い描く」ことが重要となってきます.これが,数式を使うことなく,確率統計の面白さを味わう一つの手段であるとともに,これまた論争において「(ふだんタマの食べる量がどれくらいだという)証拠はあるのか」とふっかけられる要因となるように思っています.


統計に関して昔書いたこと:

*1:これまで『ネットワークのソフィストたち―「数学は語りうるか」を語る電子討論』などを読み,当ブログで取り上げてきました.

*2:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20131023/1382454000

*3:B氏のような反応があり得るときは,防衛的に,「イギリス人は,平均して,日本人より背が高い」あるいは「自分よりも背の高いイギリス人を何人も見てきた」といった表現を選ぶ必要もあります.