わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

Can I beleive it? Must I believe it?

タイトルの「なぜ」への答えは,注意(原文では"Please note")の中に書かれていました.

〔注意:私は、個々の学生たちが真実と社会正義の両方を追求することができない、とは言っていない。以下に掲載した講演の中では、真実を大切にすることこそが社会正義を効果的に促進するための活動を実践する唯一の方法なのだ、と私は学生たちに奨励している。だが、大学のような制度は、不可侵の最高目標を一つしか持つべきでないのだ。(略)〕

テロスの中にAmazonGoogleAppleが入っているのは,ちょっと面白いなあと思いながら,読み進めると,次の記述にぶつかり,しばらく立ち止まりました.

人間が行う推論に関して、一貫した現象が発見されている。…私たちがXを"信じたい"と思う時、私たちは「私はそれを信じることができるか(Can-I-Believe-It?)」と自分自身に尋ねる。だが、私たちがそれを"信じたくない"と思う時には、私たちは「私はそれを信じなければならないか?(Must-I-Believe-It?)と自分自身に尋ねるのだ。この現象は研究者にも当てはまり、そのことは以下の結果を生じさせる。

当ブログでも以前に,canとmustの使い分けについて,書いてきました.

それらでは,canまたはmustを含む文をつくる人を,いわば自分の外に置いていました.
上の引用は,自分のこれまでの認識が,問われているように思えてなりませんでした.


「そのことは以下の結果を生じさせる。」のあとに,箇条書きで4項目が並んでいます.それぞれは真理の探求にせよ,問題の解決にせよ,(自分の)研究を進めていく上では大事なことですが,すべて転載すると字数が多くなるので差し控えます.
とはいえ英語表現について1点だけ.日本語の「自分にはバイアスがあった、と研究者が認めることは稀である。」に対応する英文は"A scholar rarely believes she was biased"です(原文のページでリンクされているpowerpoint slidesにも書かれています).それより前に具体的な女性が出ていないことから,a scholar = sheであるのが分かるとはいえ,三人称単数の表現には悩んできたものです.さらっと書かれているのを見て,最近英文を一生懸命読んでいないなあと,思わずにはいられませんでした.