『ニッポンの大学』は,末尾の内田樹氏の解説と,著者による「おわりに」をいつ読むかによって,読後感が変わってくるのではないかと考えます.私は,これらは最後に読みまして,大学名が載っているとか載っていないとかで浮ついてはいけないぞと痛感しました.
特徴的な文章を抽出しておきます.
注意深い読者なら同意していただけると思うが,本書はさまざまな項目についてのランキングを列挙した本ではなく,むしろそれらのランキングを通して,「ランク付けをする」という行為そのものの意味と妥当性を問い返した本だと私は思う.
(内田樹: 「大学は格付けができるのか?」,p.250)
本書のランキングを通読して私が理解できたことの一つは,大学の研究機関としてのアクティヴィティはランク付けが可能であるが,教育機関としてのアクティヴィティはランク付けが困難だ,ということである.
(同p.251)
教育機関の目的を,数値的・外形的に表示可能な知識や技能のある水準をクリアーさせることだと考えている教師たちは,(すべての学生がきわだって優秀である場合を除いて)その労働時間のほとんどを不満といらだちのうちに過ごさなければならないだろう.だが,つねに学生に対する不満といらだちに責められているナーバスで不機嫌な教師から学生が学び取ることができるのは,「つねに不満といらだちに責め立てられているナーバスで不機嫌な人間」の生き方だけである.
それは不幸な教育環境だと私は思う.
(同pp.252-253)
(略)学生集めに奔走せざるを得なくなった大学は,他大学と「戦争」状態にあると言えなくもない.負ければ倒産してしまう.
パンフレットに「わが大学は○○分野で××位」と掲げる大学が増えている.ランキングが「戦争」の武器に使われるようになった.いつのまにか,筆者は武器を作っていたことになる.武器がまっとうなものか.つまり,ランキングにきちんとした根拠があり十分な意味をもっているか.
ランキングの作り手は自らの姿勢を大学に問いかけ,信頼を得なければならない.
(おわりに,p.254)
上記のいずれも,本文(ランキングと著者の分析)を無批判に読むだけでは,全く気づくことのできなかった視点でした*1.個人的に,大学間のランキングを作る仕事は回ってこないものの,自分の授業の評価や,あるいは学内で職務としてすることになるかもしれない統計処理については,その位置づけと,算定方法の妥当性に関して,十分考慮しなければいけませんね.