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アメリカ式とイギリス式のディスカッション

昨日付朝日新聞夕刊*1の3版5面,「私の収穫」より.オックスフォード大学の苅谷剛彦教授によるエッセイです.

20代後半にアメリカの大学院に留学した私にとって,長い間,海外での教育・研究の拠点といえばアメリカだった.自分自身の学問の流儀はアメリカでの経験に負うところが大きい.
そういう経験から見ると,イギリスとアメリカとでは,学問の場での議論のスタイルに大きな違いがある.
オックスフォードでは,学期中はほぼ毎日,大学のどこかで「セミナー」が開かれる.セミナーとは,学内外から講師を招き講演をしてもらい,その後議論をする場なのだが,原則,誰でも参加できる.
当初,アメリカの議論に慣れ親しんだ私には,そこでの議論がどうにも生ぬるいものに思えた.質問にしてもコメントにしても,批判力の鋭さという点で物足りなさを感じたのである.
だが出席の機会も増え,司会なども経験するうちに,違いの意味が見えてきた.アメリカでは,批判の鋭さを優秀さの証しと見立て,参加者がまるで競い合うかのように議論する.それに比べ,セミナーでの質疑は,そこでのテーマの面白さをいかに引き出し展開するかを参加者が(暗黙の内に)共同で作り出していく過程のように見えるのである.競争の雰囲気は薄い.さまざまな知識を踏まえ,いろいろな角度からやんわりとした発言を通じて,テーマが展開していく.そこに論じることの面白さを見出そうとするのだ.
物足りなさと見えたのは,奥ゆかしさのゆえであった.どちらが実りある議論か.答えは単純ではない.

講演(発表,報告)内容に対して,競って批判するアメリカ式と,魅力を引き出そうとするイギリス式,といったところでしょうか.
とはいえ,アメリカやイギリスの大学へ行かなくても,このような姿を目にすることに気づきました.自分のところの大学院のゼミです.
1回の発表は,プレゼン,学生からの質問,教員からの質問という順です.これにより,他の人の発表を聴く学生に,時間をとって,質問を奨励しているわけです.回数だけで採点するのではなく,良い質問には高い点数をつけるようにします.競争型です.
一方,教員からの質問・コメントになると,努力不足を叱咤するコメントはあっても,研究内容を全否定するということはなく,これまでの成果を確認しつつ,残り期間で何を実証すればいいか,また本人の(修士の)期間を超えてどんな視点で研究を進めればいいか*2について,アドバイスや提案をすることになります.
そして,この学生と教員の行動を逆にすることは,できません.教員が点数あるいはプレゼンスを競って発表(と発表者)を批評する*3というのはナンセンスですし,経験の乏しい学生が,聞いた内容から魅力を引き出すというのは無茶というものです.
そうすると,上のエッセイは,単にアメリカ式とイギリス式の比較というだけでなく,苅谷さん自身の研究者としての成熟度も,暗に示してように思えてきました*4

*1:毎週木曜日の朝日の夕刊は,詰将棋の問題があるので,他の日よりも新聞を持つ時間が長いのです.昨日は,「将棋ソフト4種VS.人間」と題して,10月11日の対局が取り上げられていました.この将棋囲碁欄と,本日引用するエッセイが,同じ見開きにあったのでした.

*2:このレベルになると,ときには,質問した教員と,発表学生の指導教員との間の意見交換となります.面白いのですが,本人そっちのけになるとよくないので,必要最小限にしないといけません.

*3:ないことはないですよ.誰も質問しそうにないとき,また小ゼミでは立場上,質問をひねり出すことがあります.質問しにくい発表であっても,「今発表してもらったやり方を突き進めると,これこれこんな展開になると想像するのですが,そういう理解でよろしいですか?」を基本に,何か考えます.「これこれこんな展開」には,発表者がまず想定しないことを思い浮かべるようにします.ときには,よろしくない筋書きも言います.そこが欠陥だという指摘よりは,こんな穴が考えられるので,埋めるか,そこに思考を持って行かさないように何らかの回避をしてね,という意図です.

*4:同月21日追記:この文が傲慢であることは,書いた直後にhttp://twitter.com/takehikom/status/24696301382でつぶやいているとおり,自覚しています.