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藤沢利喜太郎と遠山啓

見たことのある名前です.たしか,『遠山啓エッセンス〈1〉数学教育の改革』に出てきましたね,開く…

とくに黒表紙は単なる逆行ではなく,藤沢利喜太郎が自ら誇っているような新しさもあるのだから,その評価はそれほど一本調子にはできないはずである.
(p.121)

この本(引用者注:小倉金之助数学教育の根本問題』(1924))は当時における数学教育の官僚制度をゆるがすには足るものであった.これについては藤沢利喜太郎を中心とする支配体制の側からいろいろの圧迫があったことが伝えられている.
(pp.143-144)

(引用者注:昭和33年の指導要領において)さらに割合を強調したことは緑表紙どころか黒表紙の復活といってもよかった.その根底においては量の追放をかかげていた藤沢利喜太郎の黒表紙と同一のものであった.
(pp.165-166)

戦前の算数国定教科書は,もっぱら表紙の色に由来する通称で呼ばれることが多く,黒表紙,緑表紙,水色表紙と3種類ある.
黒表紙(本当の書名は『尋常小学算数書』,『高等小学算数書』)は1905(明治38)年から全国一斉に使われた.それまでは検定こそあれいろいろな教科書があったのだが,国家統制の進行と共に国定となった.何回か改訂はあったものの,1934(昭和9)年までなんと30年間も使われた.特徴は,ドイツの数学者クロネッカーに学んだ藤沢利喜太郎の考えをとり入れたものであった.詳しいことは第2巻や第3巻にゆずるが,「数え主義」や「量の追放」などに特徴があった.
(p.194.小沢健一による解説)

asahi.comの記事内の藤沢利喜太郎の年譜およびwikipedia:藤沢利喜太郎によると,大学を退職したのが1921年.一方,前掲書p.177によると,遠山啓の東京帝国大学理学部数学科入学は1929年とあるので,直接授業をした/受けたということは,なかったようです.
しかしこの2人の間に,高木貞治が関わるというのは,興味深い人間関係を見せてくれます.遠山啓が高木貞治から教わったことについては,『遠山啓エッセンス〈6〉中学・高校の数学教育』のpp.142-143に書かれています.人間関係なんていうより,遠山啓そして新聞記者が,日本の代表的な数学者・高木貞治を引き合いに出した,というのが正しいのかもしれません.