「かけ算の順序についての検討」「かけ算の順序をめぐる論争」について,何か書いたり,論争を知るより前のでも関係しそうなエントリを思い出したりしたら,「×」を基点に書いたことでリンクしています.リンクの数は,100を超えました.
ここで,「かけ算の順序」に対する自分の思いなどを,整理してみることにしました.
コア
「ツアー」と銘打ったとき,そのための最初に見てもらうといいのは,図(スライド)と言葉を組み合わせた,12月25日のエントリになるのかなと思います.
11月27日のFAQについて,このように直列なQ&A集を作っても,読んで共感を覚える人は決して多くないだろうなあと,推敲中に感じました.そこで,できる限り,対象を数学的に記述して別エントリとしたのが,11月26日の分です.
では,11月28日のエントリの意義はどこにあるのかというと,次の段落です.
しかし今,ここで文字にしてみると,昔からも,児童が,別のところでcを知ってかつ,学校でこのいわば引っかけ問題を見たときに,「5×3=15でも理由は説明できるけれど,マルバツをつける先生には伝わらないのでこっち」と考えて,bに基づく「3×5=15」を解答したというのが,あったのかもしれません.aはcより上位にあるので,aの考え方をする子はcの考え方をする子よりももっと少ない(レアケースだ),という推測も一応できますが,むしろ,aのレベルまで配慮のできる子は,cを学ぶか思いつくかしてそこで思考停止する子よりも多いのではないかと考えます.
正解・不正解の線引き
とはいうものの,11月27日のFAQを出した時点で,考え方の骨格は決まったと言えます.あとはそれを支える,いわば肉付けの部分ですが,そこに時間を要することになるとは,当時は想像もしていませんでした.
ところで,「コアって何ですか?」というと,「中核,中心部のことです.『さわり』と言いたいところですが,誤用はよく知られていますし*1,要点にも,感動的なものにも,なっていません」といったところです.
コアの前に
11月27日のFAQで,意思を固めるより前に,ちょっとしたエントリを書いています.2つ,抜き出します.
科研申請に限定すると,こう指示されているのだから,「(数量×単価)」で表記しないといけません.計算機クラスタを作ろうとして,500千円のを16個購入したいのなら,「(16×500)」と書く必要があり,逆に「(500×16)」と記せば,16千円のが500個という,単価も数量も中途半端な数字を意味します.
科研申請の乗算
逆に書いて申請し,そう書いたことを理由として却下となる事例は,聞いたことがありませんが,審査員の心証を悪くしそうです.科研の審査経験はなく,論文の査読経験も同年代の人並みとは思っていませんが,形式に不備があれば,内容は十分に練られていないのではないかという疑念を持って読むことになりがちです.研究計画・方法や,近年では研究経費の妥当性・必要性を書く欄の中で,何をするために何を何台と日本語で書くこともできますが,ある審査員は数量と単価を逆に書いたんだなと好意的に解釈しても,別の審査員がこことここに齟齬があるとして,低い点数を付けたとしたら,お互いに不幸というものです.
長女がこの問題に面するかもしれないのは,5〜6年後です.しかし現時点の聡明さのままでいくと,「5×3=15と書いても,3×5=15と書いても,よさそうだけど,バツにされないのは,3×5=15のほうよね」と,瞬間的に比較して,1個の答えをさらさらと書くのではないかと思ったりします.
takehikomがtakehikomであるための雑記
当時は「軽い気持ち」だったのですが,ともに,後々まで影響しています.
知識は力?
かけ算をめぐる論争を,Webの掲示板などで見ていて気づいたのは,古くから議論されているというのに,その情報整備がなされていないことです.
かといって,意見の類型を整理するのは好きになれず…自分の関心から,抽出・整理を試みました.
小道に,scientia potentia estもどうぞ.
図にする
着想を,頭の中で図にしたとき,多くの人に見てもらうために作図し(その過程で,はじめのイメージと異なる形にもなることもあります),貼り付けられるのが,ブログの強みです.掲示板やブログコメントでは,そうはいきません.
プログラムを作る
かけ算の順序をめぐる検討をしていても,プログラミング欲というのが出てくることがありまして,上の4つ,いずれも苦労して,書き上げました.
コードだけでなく,動機やアイデア,コーディングで配慮した点,出力内容の確認,なども,これまでのプログラミングのエントリと同じように,記しています.
また小道です.日本語・空間・数式・コードもどうぞ.
コメント
かけ算関連で,お寄せいただいたコメントについて,労力をとって書いていただいたこと,またその主張を書きたくなる心情は十分に理解できることを挙げておくとしても,その中のいくつかには,「読んで損した」「別にここに書かなくてもいいのに」と感じました.
ネガティブな印象を受けた表現を抽出してみると,「でも、そういう解釈は不可能ではないよ、と国立教育政策研究所の担当官への反論としてです」「たけひこさん」「(ですから……それは別にして)」「順序派のかたの論理では、この問題はどうなるのでしょうか?」あたり.いずれも,かけ算の順序に否定的・懐疑的な方ばかりです.ただ,それぞれの発言者さんにコミュニケーション(メッセージのキャッチボール)能力が欠けていたというよりは,もともと信頼関係がなく,より深いレベルでのコネクション確立がなされていない状態*2で,とりあえずメッセージをやりとりすると,こうなるものかな,と思っています.
なお,「状況を図にする」で私が2月1日にしたコメントについては,学生の相談がやって来たようなものだと思っています.研究で,行き詰まったという相談に対して,一通り話を聞き,体を動かすことなく10秒ほど,課題を正視していると,解決の糸口に気づくことができ,そこから,打開の道を探っていくという流れです.
1972年の遠山氏の記事には?
1972年の「6×4,4×6論争にひそむ意味」は,かけ算の順序が気になる人なら,図書館で借りるか,古本屋で見つけるか,誰かからコピーをもらうかして,記事全体を読む価値がある文章だと思います.
当雑記では,学習指導要領や「形成的評価」との対比を行ったものもありますが,基本的には氏の書かれた中で気になる字句を取り出して批評したに過ぎません.当時の状況を理解した上で,あの記事の位置づけを確認する必要があります.
つい最近知った,遠山氏への批判が含まれている文書として,かけ算と量、そして式-個人的思い出も込めて-を挙げておきます.
これから
意識を大きく変えさせられる文書との出会い
- 執筆者(単独または複数)の専門知識や現場での経験などを背景に
- イメージしやすい事例や数量を取り入れ
- 優しく,簡潔で,しかも誤解の余地が少ない記述をしている
- リリースまでに(主たる)執筆者以外の人の目によるチェックが入っている
ツアーを終えるに当たって,今,持っている一つのイメージを書いておきます.
かけ算の順序に関する問題は,「鞍点」のように見えます.概形図は鞍点をどうぞ.
小学校の先生は,文章題に対して,何を被乗数,何を乗数として選んで,かけ算の式として表し,答え(総数)を求められるようになればいいのか,創意工夫のもとで指導します.授業やドリルなどを通じて,楽々乗り越える子もいれば,引っかかる子もいるでしょう.その情景が,ある断面で切ったときにできる曲線の,極小値に対応します.
その一方で,ネットの掲示板やブログを中心として,そういう出題や教育方法がいいのかを検討しているのは,別の断面で切ったときにできる曲線の,極大値です.まあ,正確に1点と定まるというよりは,その焦点が鞍点になっていて,周辺を見ている,というべきなのでしょう.
そして,学校現場とネットが,鞍点を含む曲面で分割される,一方の空間ともう一方の空間に思えてきます.
学校現場の悩みがネット上で共有され,ネットでの議論や情報整備が,学校現場で活用される---そんなときが,来るのでしょうか.
(本エントリは今後,予告なく変更することがあります.)