個人的に尊敬をしている2人の方が,別々のブログで,同じ年月日に,相異なる表現をとっていながら,その根底にあるのが共通しているような,そんな記述を見かけました.
@tuxedocat_twくんから「どうやったら文才のあるようなブログ書けるんですか」と言われ、自分も過去は OS をインストールしたとか、ソフトウェアの設定ではまったとかばかり書いていた、という話をして、あとで自分の2001年当時(10年前!)の日記を見たりして悶絶 (ちなみにウェブ日記は2001年1月1日から毎日欠かさず書いている)。10年経つともはや技術的な話はどうでもよくなる。現在も読んで意味があるのは 1/10くらい……。この日記もこれから10年経ったら自分で読んで赤面するのだろうか (しそう)。
自分の日記は10年後に読み返すものではない - 武蔵野日記
Twitterにも書いたけれど、僕はアルファブロガーになりたくて書いていたわけじゃない。書きたい衝動に突き動かされて書いていた。衝動が弱くなれば、コンテンツも弱くなる。中途半端なことはしたくなかった。「最盛期」より、元気なコンテンツを書くことは、もう無理だと判断した。自分のblogに寿命が来るなんて思ってもみなかった。
http://ghost-hrkt0115311.tumblr.com/post/5838752672/blog-06-12
「うわ,こことここ,いっしょやん!」という発見は,かつて,ブログを書くことの意義とスタイルで取り上げたことがあります.
「ブログを継続するということ」というタイトルにしましたが,継続するためにふだん何をしているということは,書かないことにします.とはいえ最近,書くという手段のためなら目的を選ばないの中で,そのいくつかを文字にしていますので,関心のある方はどうぞ.
私の場合,いくつかのWeb日記*1を経て,2006年9月からはてなダイアリーで書き始め,ここに落ち着きました.様々な記法を提供(後に拡張も)してくれて,書きやすかったのが一点と,あと,自分のエントリを検索しやすいというのが,使い続けている要因となっています.
mamorukさんの「赤面」も,分かります.昨日,
を読んだときに,その内容もさることながら*2,「抑制的」という,ふだんあまり使わない言葉が目につきました.
気になったときは,当雑記で使ったことがあるか,チェックです.今月1回,先月1回*3,使っているのを確認しました.
これは一例であって,あれやこれや,書いたことをもとに考えてみると,長年つけているブログの,一番の愛読者は,未来の自分であるように思えるのです.
とすると,意思を持って私が自分のブログを畳むのは,未来の自分に対して申し訳なく感じるとき…でしょうか.