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生きづらさ・2×3−1

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

「コミュニケーション」の本です.
といっても,これを読めばコミュニケーション能力がアップする,という本ではありません.しかし,これを読めば,あなたとその周りの「関係性」が見えやすくなります.
周りというのは,会話などを交わす直近の人々だけではありません.
ニュース報道などで目にする当事者,とりわけ“弱者”にラベリングされる人々を,「コレコレだからダメだ」「自分とは違う(自分はこうして困難を乗り越えた)」と切り捨てにくくなると思います.この薄い本を2回以上,通し読みして,思索すればですが.
さて何を論じた本なのかですが,本文から抜き出しましょう.

本書で私が試みたいのは、そうした「関係性」をめぐる問題について、「個人」にも「社会」にも還元することを可能なかぎり先送りしながら、そのまま「関係性」の水準で捉えてみることです。前記の例でいえば、「彼/彼女とコミュニケーションが取れない」という女性や男性に対して、「コミュニケーション能力を身につけなさい」とか、「ジェンダーを生み出す社会構造を変えましょう」とか言うまえに、「どのような文脈で、誰の、いかなる振る舞いがコミュニケーションの途絶を招いているのか」をその都度問い返していく、ということです。
(p.8)

とはいえ前半は正直なところ,面白みを感じずに,まあ起承転結でいう起と承だからなあといった感覚で,バスの中で読み進めていました.
転ではないのですが,のめり込み始めたのは,6つの分類のところです.
名称と,初出ページをリストにします.なお,「1-」と「2-」の数字は,原文では丸囲みです.

  • 「選んだ以上は自分の責任」・〈自己責任論的立場〉・1-A,p.33
  • 「弱者は負けてもしょうがない」・〈優生学的立場〉・2-A,p.34
  • 「選ぶように追い込む社会の責任」・〈社会要因論的立場〉・1-B,p.35
  • 「弱さは社会で負担しよう」・〈社会保障的立場〉・2-B,p.36
  • 「自分の弱さを受け入れよう」・〈無力さの承認の立場〉・2-C,p.37
  • 「自分で選んだ,でも社会に追い込まれた」・〈存在しにくい立場〉・1-C,p.38

p.39には「理解の枠組」と題する,2行3列(表頭・表側を除く)の表があり,1-Cはアミカケになっています.
この1-Cを,「生きづらさ」を理解するカギとした上で,表の下の本文で,次のように書いています.

「関係的な生きづらさ」は、その人に固有の、他者や集団との距離の取り方や、学ぶこと・働くことをめぐる人生の描き方に深く関わっています。その意味で、これらの状態は「その人がその人である」ということと一体化しており、切り離すことが困難です。だから、社会要因論では十分にすくい挙げることはできません。けれども、当人は必ずしもその状態を望んでいるとは限りませんし、まして意図的に選んだわけではないでしょう。仮にある時点で選んだように見えたとしても、人や人を取り巻く状況は刻々と変化するのです。次の状態へ移りたいと思ったとき、その可能性が社会構造的に閉ざされているとすれば、自己責任とは言えません。
このように、「関係的な生きづらさ」は、社会要因論と自己責任論のあいだにすっぽりと落ち込んでしまい、どちらの立場によせても、理解することが難しくなっています。誤解をおそれずに言えば、私たちが不登校・ひきこもりを理解できないのは、それが「貧困」でも「病気」でもなく、「個人の意志」でもないからなのです。
(pp.39-40)

私はそこに書かれている「生きづらさ」を,3つの視点から,今後も見ていくことになります.一つは,学生を社会に送り出すという大学教員の視点です.「今のまま(知識・技能・態度)では内定もらえないよ/職場で苦労するよ」といった発言を,ご想像ください.ある種の親心,とも言いたいのですが「親」に関しては後述します.
2番目は,アカデミックな世界にいる者,すなわち研究者の視点です.パーマネントな大学教員の職を得てお越し,というケースだけでなく,それぞれに事情があって大学を去られる先生方を目にするときにも,考えないといけませんね.
3番目は,今のところ3人でこれから1人追加となる娘たちに対する,親心です*1.生き方を巡る親子間の意見対立や,学校だけでなく家庭内におけるいじめも,無視するわけにはいきません.
子どもが将来,この世を去る私に対して「パパ,ありがとう」と声をかけてくれたとして,その言葉の裏にどれだけの苦労が,父に言えない鬱憤が,込められているか,自分自身,気づくことはできるのでしょうか.

付記1

コミュニケーションの基本の一つかも:

時おり「働くこと」「学校に行くこと」の前で立ちすくんでいるひとに向かって、「ごちゃごちゃ考える前に、まずは一歩踏み出してみてはどうか」というアドバイスをする人がいますが、それはあまり現実的だと思えません。なぜなら、「考えていない人」に向かって「考えなさい」と言うことはできても、「もう考えてしまっている人」に「考えるのをやめなさ」と言ってもそれは無理だからです。
(p.27)

付記2

1) 「その都度問い返していく」(p.8)で連想するもの

1. その時々の状況に応じて,どのような考え方が〈自由の相互承認〉や〈一般意志〉の原理を最も実質化しうるといえるか、その具体的理念を実践理論として探求する。
2. どのような条件を整えればより〈自由の相互承認〉や〈一般意志〉の原理に近づけるようになるか、その技術論を実践理論として構築する。
(『どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)』, p.130.2011年9月10日

2)「状況は刻々と変化する」(p.39)で連想するもの

  • プレゼンの英語は滑らかでも,「時間経過に伴うナニナニの変化にシステムはどう対応するか?」という趣旨の質問に戸惑われているという状態がありました.(エンジニアリング)デザインに携わっていれば必須の問題意識なのですが.あるいは,質問の型というのは国外でも変わらない,と見るのがいいのでしょうか.
2010年4月10日

(最終更新日時:Sun Feb 12 06:30:51 2012ごろ)

*1:著者もp.57以降に,「教師」「母親」の立場で思いを記されています.