わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

家のことを問う

第1章(巨大化する組体操),第2章(「2分の1成人式」と家族幻想)まで読み終え,手が止まりました.
賛否を書いておくと,何段にもなる人間ピラミッドやタワーは,まずいなと思うようになりましたが,2分の1成人式は中立で,今後も実施するところはするのかなといったところです.
2つの章の違いに関して,組体操は学習指導要領に記載がない(p.57)と指摘する一方で,2分の1成人式と密接に関連する,家庭教育や家庭の多様性について,関連する情報源を明示していないのも気になりました.
小学校学習指導要領解説でリンクされている「生活」の解説を見ていくと*1,9つの内容の中に「(2)家庭と生活」が位置づけられています.解説ではp.29から,この項目について詳しい説明があり,その意義や事例を整理したあと,以下のとおり注意事項が記されています(pp.30-31).

この内容の学習を行うに当たっては,次の点に十分配慮することが必要である。それは,児童によって家族構成や家庭生活の様子が異なるので,それぞれの家庭の違いやよさを尊重することである。これによって,児童は安心して学習に取り組み,自分の家庭を見つめることができる。また,各家庭のプライバシーは尊重されなければならない。そのためにも,家庭の理解と協力を得て,学校と家庭との連携を図る必要がある。

昔はどうかというと,昭和二十二年度の学習指導要領 社会科編(試案)の第一学年で,多様性・多様化といった言葉が見られないものの,より具体的に,差異を説明してありました.

教師は児童がさまざまの家庭から学校へ来ていることを深く考えなければならない。ある家庭には本やおもちゃがあり,家族そろっていろいろな楽しみをし,児童は児童としての仕事を持っている。また,ある家庭は物持ちであるか,児童には受持の仕事といったものがない。ある家庭では,家じゅう朝から晩までただー生懸命働いていて,休息とか団らんというような機会がほとんどない。ある家庭では保健・衛生の注意が行き届いているのに,他の家庭では無関心である。これらの差別は,児童の経験ならびにその成長に大きな影響を与えている。

あとは児童から見た学校生活のこと,近隣の社会のことに触れたのち,「第一・二学年においては,かゝる家庭・学校近隣の社会の生活に慣れさせ,その生活を豊かにして行くところに重点をおくのが,児童の興味に即するゆえんであろう」と取りまとめ,第一学年の指導に話を進めています.以降に出された社会科の学習指導要領も,低い学年では家庭・地域,上の学年では国家が,学習の対象となっているのは共通しています.


ここで自分の記憶をたどってみます.小学校の3年だったか4年だったか,社会の宿題で,自分の家の人はどんな仕事をして,何を作って,それがどのように使われているかを書くことになりました.
当時から,休日には父のトラックに兄とともに乗り,毎回異なる作業現場にて,プレハブ建物の解体(ときには建方)の手伝いをしていたので,答案を書くのは苦労しませんでした.
ただ,答案を書くにあたって,「何を作って」のところで戸惑ったのも思い出します.
解体作業は,ものづくりではありません.そこで,プレハブ建物を建てる方向に切り替え,解答に仕上げました.
そうしながら,製造業だけが仕事ではないことに,「何を作っているのか」という課題を通して,気づいたことが,今の生き方にそれなりに影響を及ぼしています.
現在の視点では,次のように問うこともできます.学級において上記の宿題を課す際,仕事をしている人のいない家庭への配慮が,なされていたでしょうか.
当時の学級の状況は,分かりません*2.今はと言うと,3種類の対応が,思い浮かびます.
1つは,答えられない(家庭環境の)児童がいるなら,課さないことです.あるいは上記の宿題は,どの子も答えられるのを,担任の先生が分かっているから課した,と裏読みするわけです.
2番目は,一律に課すけれども,連絡帳などを通じて,配慮の必要な家に伝えるという手です.
3番目が最も現実的かもしれません:一律に課し,ある子どもが課題に取り組む段階で,答えられない,または答えたくないとなったときに,その子どもと先生の間で,またときには保護者も入って,どんな答案にするか(答案を出さないというのを含めて),話し合うことです.
いずれを選ぶにしても,学校は,あるいは担任の先生は,児童らの家庭環境を知っていることが前提となります.3番目は,そういった知識なしでも実施できそうに見えますが,家庭の状況を踏まえた宿題や,家庭の活動(学校に伝えることを含めて)では,やはり不可欠っぽいなという思いもあります.


2分の1成人式が,親に感謝するという行事になり,「虐待の問題提起の目を摘んでしまい,さらに不幸を増幅させる」(『教育という病』p.92)という指摘に関しては,ネットの意見を超えたところからの情報整理があってもいいのではと思いました.
個人的に知っている話を,教師・児童についてなるべく触れずに書いておくと,家庭における虐待の可能性は,こういった行事よりも,普段の学級・学校での振る舞いから,知ることができるそうです.
例えば,学級内で他の児童に攻撃的な言動をとる児童には,担任がその家庭の状況をよく聞きます.そのうちの1件は,母子家庭であり,お母さんが手をあげた次の日に,学校内でよくトラブルが起こったとのことです.
といった事情が分かったからといって,家でしっかり教育せよだとか,逆に子どものことは学校でよく面倒を見ますよとか,言うわけにもいきません.
担任の先生の対応は,良くも悪くも現実的な範囲に留まります.校内で,その児童がしてはいけないことをしたら叱ったほか,連絡帳には他の児童よりも詳細にお知らせを書いていました.
さて私も私で,大学にて主に1年生に,共通の課題を課しながら,活動や答案を見て,それぞれの評定だけでなく,それらの問い方が適切だったか,改善の余地はないかを,いろいろな場面で考えさせられています.
学生が「自分の家では」と言い出すことはないにしても,兄弟姉妹の存在や,PCなどの保有機器や計算機関連の経験を持ち出したときには,よく聞き,それがどのように学生本人の「いま」を支えているかを,理解するのに努めています.
上述の,要注意の課題に取り組ませたいときの3つの選択肢(「1人でもできないなら,(全体にも)させない」「できない者には別途指示する」「できないと言われてから対応する」)については,本で読んだことや,小学校教師経験者の話をいくらか,踏まえつつも,基本的には自分が授業や研究室を通じて,検討していることです.この中で,安易であり,手抜きもできるのは,3番目の事後対応です.2番目,1番目になるにつれ,準備や配慮も必要となります.
2分の1成人式は,『教育という病』が今後,多くの人に読まれることによって,抑制されるようにも感じますが,そのことが家庭をより良くするだとか,表面化されない虐待が増えるだとか減るだとかについては,何とも言えません.
保護者として家庭教育に,教員として大学教育に携わっている,自分自身としては,うまくそれぞれの経験をリンクさせ,学習指導要領や教科書から読み取れること,また先生(大学においては同僚や職員,それとティーチングアシスタント)の苦労や思いを受けとめながら,自らの能力と家庭環境・学習環境の向上を図るのみです.

*1:他の科目を簡単に書いておきます.道徳の学習指導要領解説では,「第7章 家庭や地域社会との連携」という章が設けられていますが,「多様化」は社会環境に対して言及されており,しつけなど指導はどちらかというと一律的です.社会科の中に,「家庭における飲料水の使われ方や廃棄物の処理の仕方などを取り上げる際には,個人のプライバシーに十分配慮する必要がある」という説明も見られます.

*2:ここでも,記憶を引き出してみると,親の結婚によって姓が変わった子どもが何人かいました.