わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

学生が計画書どおりのことをやってきたら

これからの大学

これからの大学

 大阪へ行ったときに書店で購入し,昨日*1,読み終えました.
 興味深かったのは,学生がこうしたら教員は叱るであろうという話です(pp.128-129).

 文化人類学の授業では、学生がフィールドワークをする調査実習をとても重視しています。特定の場所に出向いて人の話を聞いたり、参与観察をしたりして現地調査を行なう。そのとき、事前に綿密な調査計画を立てることを学生に求めます。
 でも、もしフィールドワークを終えて、学生が最初に立てた計画書どおりのことをやってきたら、人類学の教員は「何を見てきたんだ!」と叱責するはずです。計画通りに調査をして叱られるって、そんなばかな、と思われるかもしれません。でも、さまざまな現場を経験した人類学者は、現実がつねに予測不可能で複雑な事柄に満ちていることを知っています。現場に行く前に立てた机上の計画通りにいくはずがないのです。
 現場に入る前に立てた計画がそのままで何も変わらなかったとしたら、その学生は、そこで起きていることをしっかり観察したり、人びとの声にちゃんと耳を傾けたりできなかったか、自分にとって都合のよい情報だけをつまみ食いして帰ってきただけでしょう。そもそも、事前に想定されていたとおりの情報を集めるだけなら、わざわざ現場に行く意味はありません。
 きちんと目の前で起きていることに注意を払い、人びとから学ぶというという姿勢で、対話を重ねながらそこで起きていることを把握しようとすれば、おのずと予想外のことが見えてきます。そうしたあらたな発見へのルートを探索する技術こそが、繰り返し書いてきた「知恵」の方法です。事前の計画は、理屈で考えたり、本で読んだりした「知識」が現実にそのままあてはまらないということを身をもって経験するために立てているとも言えます。
 人類学の教員は、学生たちに、自分の意図や目標を計画通りに達成することではなく、その歩みの先に想像もしていなかった地平線が見えてきて、自分が変わり、世界への見方が変容していくという経験をしてもらいたいと思っているのです。それが、学問が教育的でありうることの意味だと思います。

 ここまで書き出して,自分から学生への関わりを,振り返ってみました.授業で学生に課題を取り組ませたり,研究で実験計画書を作らせたりして,計画(想定)どおりに達成しているときに,どんなフィードバックをしているか,です.
 計画どおりの実施内容に対して,叱りつけることは,さすがにありません.計画は,信頼性を担保するための手段であるのに対し,成果---授業なら答案やプログラムコード,研究ならデータベースに格納される情報や評価アンケートの回答など---を見ることで,「現実がつねに予測不可能で複雑な事柄に満ちていること」を再確認する機会になります.
 とはいえそれは,教員の見方であり,提出した学生(のクラス)や,研究室の学生には,それぞれに適したフィードバックを行います.例えば授業であれば正答例と誤答例,そしてなぜ誤答なのかの解説です.研究においては,論文に取りまとめる際に成果をアピールするためのアドバイスとなります.
 授業や研究室で,それぞれの活動において「自分が変わり、世界への見方が変容していくという経験」ができているかどうか,どこかで問いかけてみたいものです.

*1:話は朝の8時半から始まります.テレビはヒーリングっどプリキュアを表示させ,CMのときに本を読み,テレビが本編になったら,顔を上げました.ほどなく,さきの子がやって来て,あたしも見たいたいと言い出すのですが,ママもやって来て,テレビはオフ,さきの子は机でお勉強,のはずが集中できないようで別室へ行きました.テレビを付け直すわけにもいかず,静かな環境で読み終えました.第5話は今朝起きてからTVerで観ました.