わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

いい加減な結論?

日本の教育,ひいては日本社会に最も欠けているのは,自分自身で考え,理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練のほうだ.思考する訓練を積んでいない者に,よく討議されたわけでもない結論を押しつけるような教育が施されているのが,最大の問題なのだ.
(略)
だが,結論の出ない問題,安易に断定できないことが世のなかにはあるのだということを生徒の前に明らかにするのは,別に恥ずかしいことではあるまい.少なくとも,いい加減な結論を押しつけておいて,生徒に疑問を差し挟む余地を与えず暗記だけさせる授業に比べたら,はるかに豊かなものとなるだろう.
(不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書), pp.158-159)

一般論としては,否定するものではありませんが,立ち止まってちょっと考えると,おかしな表現があります.「よく討議されたわけでもない結論」「いい加減な結論」です.
教科書検定制度のもとで,高校までの教育では,「教育上配慮された結論」と表現すべきでしょう.そして「結論の出ない問題,安易に断定できないこと」の存在を,高校までで見かけることがあっても,そういう問題にどう対処するかは,大学の教養科目や専門課程の役割ではないかと考えます.
歴史*1をキーワードにするなら,「自分自身で考え,理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練」には,史料批判(資料批判)が不可欠ですが,これを高校までの教育でするというのは無謀というものです.私自身,そのような教育を受けておらず,ネットの議論を見てきた程度ですが,それでも,教科書にせよ,一次史料にせよ,対象とされる史料(資料)だけを読んで解釈するのでは不十分であり,関連する文献や史実と比較して,書かれていることが正しいか間違っているかを含めて,各読者が,主張の輪郭を描いていくことになります.
書かれたものから重要な情報や主張を読み取る能力は,中学や高校の国語・数学などを通じてある程度のレベルに上げられるとしても,他の文献を連想し参照すること,そして見つけた文献や,他の人や教員が提示する資料について整合性を評価するのは,また別の能力なのです.
なお,工学において,資料批判が不要かというとそうではなく,あらかじめその分野の主要論文key papersを知っておかないと,自分の研究の位置づけやオリジナリティは主張できないですし,研究発表に対する質疑で,「内容に関する突っ込んだ質問」に答えることはできても,「内容の“外”の質問」に答えられない光景はよく見かけます.

*1:上の引用は,『第四章 「正しい歴史」は存在するか』の一節です.