昨日,冒頭に書いた『もし,俺の彼女の手当てが遅れて,死んだらどうするんだ.あんたが,責任を取ってくれるのか?』は,「法などに基づく責任問題」という観点だけでなく,「判断内容の正当性・妥当性」という観点でも,考えることができます.本を読んでいき,興味を持った箇所を引用していきます.
トリアージの評価には,社会的評価と医学的評価の2つの面が考えられる.
社会的評価とは,災害あるいは事故に対して行われる救護活動のなかで,トリアージがどのような意味を持ち,どのような役割を果たしたかというもので,災害ないしは事故におけるトリアージの見方,あるいは重みといった評価である.この場合は,災害もしくは事故そのものの発生状況にもよるが,周辺の様々な条件が関与し,極端にいえば政治経済社会の問題も含め,時間的にもある程度は前後の経過のなかで総合的に考えられるべきである.
これに対し医学的評価とは,病院などの医療施設で傷病者をできるだけ早く治療し,1人でも多くの人を救命するために,トリアージの際に,傷病者に対する重症度や緊急度をどれだけ有効に判定したかというもので,いわばトリアージの技術的達成度の評価である.
(トリアージ―その意義と実際, p.15)
「社会がトリアージ行為に対して評価を行うこと」の意義を指摘しています.もちろんこのことだけで,トリアージの検証番組が肯定されるものではなく,TV番組にせよ医師らの報告書にせよ,その評価内容を他の人(bloggerを含む)が検証していく必要はありますし,事後検討だけでなくその成果を蓄積して,何かあったときに備えたいものです.
トリアージにおける傷病者の緊急度,重症度の判定に関しては,現時点で数字的にはっきりとらえられているわけではないが経験的には80%程度の達成度で行われていると言える.流動的な傷病者の発生頻度,あるいは医療資源の容量などを明確に考慮に入れて,緊急度,重症度がどの程度の正確さで決められているかといえば,評価としてはかなり厳しくむずかしいものであるが,結果的にはおおむね良好という感触が得られているのが現状である.
(前掲書, pp.15-16)
ここ,「80%」という数字が独り歩きしそうな危惧もありますが,評価を専門家が説明している重要なところに思えましたので,明記しておきます.
危惧をもう少し具体的に書くと,「事後に」トリアージ判定の成功率を常に数値化することが求めるような社会になるとまずい,ということです.
それと,「80%ということは,5人に1人,50人いれば10人も,判断が間違っているのか!」という指摘の出る怖さもあります.仮に99%であっても,分母すなわち対象者数を増やせば,分子すなわち判断ミスの数を大きくできてしまいそうです.
トリアージはいわば判定評価の技術であるから,実際に行われたトリアージをどのように評価するかは,救護活動にとっても非常に重要な意味をもっている.
たとえば,優先度第一順位の赤のタッグがつけられたグループの搬送中に,優先度第二順位で待機中の黄のタッグがつけられたグループの中に死亡者が出た場合は,どのように考えるべきであろうか.この場合は,傷病者に対する緊急度,重症度の評価が十分でなかったと言えるが,もっとむずかしい面も多々ある.救護活動が終わった後で,その後回復したのか,あるいは治療のかいなく死亡したのかなど,長期にわたる追跡調査が必要だったり,また生存の状況に関しては,収容された医療機関などの治療能力もからみ,評価の問題となるとさらに複雑になる.この他にも搬送そのものの限界や技術的な要素も影響してくるので,問題を広範囲にとらえればそれだけむずかしさが増すことになる.
(前掲書, pp.16-17)
見聞きする多くのフィクションや論考では,「赤か黒かの迷い」をよく見かけるのですが,上記には「赤か黄かの迷い」が書かれています.ちなみに同書を一通り目にした限りでは,「赤か黒かの迷い」に関する言及はありませんでした*1.