わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

綱引き

本日は,うえの子の幼稚園の運動会でした.
クラス*1の保護者対抗の綱引きに,エントリされていました.トーナメント形式で,1回戦,決勝戦ともに勝ち,優勝しました.チームの代表者が,園長先生からトロフィーを受け取りました.
練習など,していません.そして「仲間」を知ったのも,開始のホイッスルから10分ほど前です.一本の綱に力を込め,理不尽なまでに滑る地面,そして「低く! 低く!」という応援の声*2にも,ままならない我が身に苦労しながら,一進一退の展開を繰り広げ,勝利を共有する機会を得ました.


いろいろあって夕食後,あれこれ経由して見かけた記事に,「うーん」と考えさせられました.

橋下徹の教育カイカクが強調する「日本の教育には競争が足りない」という煽り。
私には同意できないです。
なぜなら、『競争』は、日本の教育にはすでに過剰なほどあるからです。見える形で、そして、見えない形で。『競争の敗者』への有形無形の『罰』とともに。
ついつい読んでしまう内田樹の教育論なのですが、今回はこれをお持ち帰りで読むことにします。
(転載:略)
そのうえで、落ち着いて静かに教育について考えるために、またこの二つの記事を読み直すことにします。
(転載2件:略)
私は、「日本の教育にもっと経済原理と競争を」と煽る「教育論」よりも、フランソワ・オランド仏大統領の演説で表現され、あそぶログのasobitarianさんによって的確に解説された教育論の方がずっとしっくりきます。みなさんはどうでしょうか。

教育と競争と経済原理 (「内田樹の研究室」を読む) - 村野瀬玲奈の秘書課広報室

転載されている文章は,それぞれ「なるほど」です.
橋下徹の教育カイカク」は,本を読めば具体的なところが確認できると想定して,その特徴が「日本の教育には競争が足りない」であることには一応了解です.
落ち着いて静かに教育を,自分なりに見直してみると,次の3冊が思い浮かびました.

日本の算数・数学教育に学べ―米国が注目するjugyou kenkyuu

日本の算数・数学教育に学べ―米国が注目するjugyou kenkyuu

  • 作者: ジェームズ・W.スティグラー,ジェームズヒーバート,James W. Stigler,James Hiebert,湊三郎
  • 出版社/メーカー: 教育出版
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 単行本
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長年にわたる改革にもかかわらず,米国において授業はほとんど何も変わっていないことを研究は示唆しています。日本の場合,これとは対照的に学習指導の実践は過去50年の間にめざましく変化してきました。この差違はどのように説明できるのでしょうか。日本もまた,教育実践を変えることにねらいを定めてきました。しかし,変化を生じさせる方法に関する前提,およびこれを実現するために設けられている仕組みは米国におけるものとまったく違います。米国の教科教育学者は大きな変化を比較的短期のうちに求めてきました。実際,正にこの「改革」という言葉は突然の大規模変化という意味を内包しています。これに対して,日本の教科教育学者は,学習指導に関する長期にわたる漸進的,微小増加的改善が生じる方式を制度化してきました。この方式は明確な学習目標,全国的に共通なカリキュラム,および授業実践における漸進的改善に立ち向かう教師の勤勉,努力をも含むものです。
日本では授業実践の改善に関する第一の責任を教師自身に与えています。「校内研修」とは,教職についた日本の教師が一度は携わるべき学校単位の専門職的能力開発の持続的過程*3を表すために使われる言葉です。米国では,教師は教師養成教育を終了してしまえば適性を有していると見なされます。日本ではそのようには見なされません。校内研究同人(研究仲間)等と称する研究集団に参加することが日本の教師の重要な職務の一つであると考えられています。この同人集団は二重の役割を果たします。その役割は,教師が指導者になり,また指導される者となること,および学習指導の新技術開発とその検討のための実験の場を提供することです。
事実上ほとんどすべての日本の小・中学校がこの校内研修にかかわっています。教師が運営する校内研修は,学校改善の総合的な過程を構成する諸活動と一体化しています。教師は学年(部)会という集団でいっしょに取り組みますし,教科部会(例えば算数・数学,国語)でも,また専門委員会(例えば教育工学委員会)でも同様です。これらさまざまな集団の活動は学校改善計画のもとで調整され,各年度の努力目標や重点事項が設けられます。教師の大部分はこれとは別に地域*4の研究会の会員として仕事に携わり,普通は月に1回の割合で夕刻に会議を開きます。教師は校内研修だけでも毎月かなりの時間をこれに費やします。
(pp.106-107.強調は引用者)

2冊目です.

田中博史の算数授業のつくり方 (プレミアム講座ライブ)

田中博史の算数授業のつくり方 (プレミアム講座ライブ)

では,オープニングに,私がいつも自分のクラスで行うゲームをやろうと思います。
全員ご起立ください。輪になっていただけますか。1つの輪になります。私のクラスは40人です。その40人が初めて出会うときにやるゲームです。(略)
電線ゲームを知っていますか。手で電流を送るゲームです。片方の先生からぎゅっと手を握られたら,もう片方の先生の手をぎゅっと握っていきます。すると,ずうっと回っていきますよね。やってみますよ。今から私が信号を送ります。このぐらいのことでも話を聞いていない子がいるとね,途切れるんですよ(笑)。
いきますよ。はい。(黙って電流を送っていく)はい,電流が戻ってきました。
このゲームは,「今日から1年間,先生と一緒によろしくお願いします」という挨拶をするときのセレモニーです。(略)
もう一度,回しますね。今度は回っていることを実感してもらいます。自分の誕生日の日付を使いましょう。日付の一の位が奇数の方は,通過したときに,「あ,いま通りました」とか,何でもいいですから反応してください。「あっ」でも,「うっ」でもいいです。ただ,大人ですから,「あっ」とか「うっ」とかではなく「いま通ったよ」や「あ,来た来た」など,そういう言葉にしましょう(笑)。
では,いきますよ。(電流を回す中で「来ました」「通りました」などの声が聞こえる)
はい,戻りました。さて,いま何人の人が声を出したと思いますから,数学的にいうと,約半分になるはずですね。このようにちょっとした算数の話もするんです。
これを高学年のパターンにすると,例えば,誕生日を3でわって,あまりが1の子が声を出すようにします。計算できない子もいるかもしれませんね(笑)。3でわるので,声を出す子はだいたい3分の1になるはず。
このように,算数の話も交ぜながら,ゲームでクラスの一体感をつくります
本日ご参加の先生方には,今日一日だけ私のクラスの子どもになって,その一体感を感じていただきたいと思います。
(pp.7-8.太字は原文どおり)

上記はいくつか,補足が必要になりそうです.サブタイトルにもあるとおり,「講座」が開かれたのですが,その参加者は,小学校の先生です.あとがきによると「40名限定」とのこと.
そして上の話を読めば,自分のところでもやってみようという気になります.「奇数」「3でわって,あまりが1」のところはいろいろ変えられるなとか,電流が途中で止まってしまったらどうしようとか,ある程度は考えてから実施する必要があり,それは遊びも授業も同じです.逆説的ですが,十分な準備があるからこそ,その場での予想外の反応に先生が心底感動でき,「素晴らしい!」と発せられるのです.
それと,何度か「(笑)」が入っているのを,読んでどう思われましたでしょうか.私は,そのとき実際に,講師・田中博史も,参加者もみな笑ったんだなと理解しています*5.このくらいの頻度で,笑いが,外国人と会話するときにできると,良好なコミュニケーションがとれていると言っていいでしょう.なのでこれは,全参加者が日本人の小学校教師だけれど,異文化コミュニケーションにひけをとらない「場づくり」ができていることを,含んでいるように思います.
3冊目は,教育と競争で容易に思い浮かぶ,いわゆる全国学力テストに関する本です.

全国学力テスト―その功罪を問う (岩波ブックレット)

全国学力テスト―その功罪を問う (岩波ブックレット)

ここで、全国学力テストの実施を正当化する論理として語られているものを整理したい。さまざまな議論をまとめると、おおむね次の四つの「理由」を、そこに認めることができる。
①全国の学力水準・格差の実態を把握し、成果と課題を取り出す。
②子どもたちの学習の進歩を捉え、指導の改善に役立てる。
③教育成果の中心的なものである学力の状況を、市民に目に見える形で伝える。
④テスト結果をめぐる競争によって、全体の学力向上を図る。
ここでは、①を〈実態把握〉の視点、②を〈教育評価〉の視点、③を〈説明責任〉の視点、そして④を〈競争主義〉の視点と名づけておきたい。
(p.61)

あいにく手元に本がなく,上記は[http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20090211/1234304214:title=全国学力テストは必要か〜実態把握・教育評価・説明責任・競争主義]からの孫引きで,句読点と番号を原文に合わせました.それら4項目について,著者の見解が気になったら,薄いこの本1冊を通読することをおすすめします.

著者は大学のセンセイだ,机上の空論かよ…ともし思われたら,[wikipedia:志水宏吉]をご確認ください.大阪大学のセンセイですし,「学校の言うこと」に耳を傾けていないと,そこに挙げられている著作は出てこないように思います.他に読んだ本のことを[http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20110926/1316978271:title=昨年9月],[http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20070721/1184977813:title=5年前の7月]に記しています.


3冊を自分なりに整理すると:

  • 『日本の算数・数学教育に学べ』の上記引用は,米国と比較した,日本の教育の特徴が際だった箇所と言えます.
  • 『田中博史の算数授業のつくり方』で取り上げたゲームは,一言でいうと「先生の創意工夫」です.実際に人のつながりを得ているわけですし,ルールと参加者に注意すれば,いくらでもアレンジが可能なわけで,これによって創意工夫のつながりも,うかがい知ることができました.
  • 『全国学力テスト―その功罪を問う』は,全国学力テストの是非(オールオアナッシング)よりも,実施されたことをどのように理解し今後につなげるか,人によって重視するものが異なるであろう観点をどのようにすり合わせればいいのか,などを考えるきっかけとなった本でした.


それで,前回といい今回といい,なぜ,かこのブログに引き寄せられたかが,分かってきました.
主張にも,それを裏付けるための引用にも,「なるほど」です.ですが読み終えた上で,「そういう情報を認めた上で,それらはこれからの自分/我々にどう影響するんだろう」という疑問が思い浮かぶのです.当ブログで何度か書いてきた,「So what?(だから何)」なのです.
かといってその疑問を直接,ブログ主さんにぶつけて,納得のいく回答が得られるようにも,書きぶりからして思えません.
そこで私自身の読んできたこと,書いてきたことと…本日の,プレイヤーにとって快適とは言えない環境での綱引きが合わさって,認識できたのは次のことです.地に足をつけて,生きていかないといけません.足もとをすくわれても,そのたびに立て直します.勝ち負けは,二の次,三の次です.
書いてみれば誰もがやっている,当たり前のことです.ふつう「生きる」と言えば「一歩一歩」だとか「前進」を連想するのですが,引っ張ってこそ勝ち(前に出たら負け)を意味する,綱引きがきっかけになったのも,変な話です.
村野瀬玲奈さん自身が,地に足をつけていない,と判断できる情報は持ち合わせていません.しかしこちらで引用させてもらった先のエントリ,そして直近のいくつかを読んで気づいたのは,地に足をつけて,生きていこうとする姿が,そこには見当たらなかったということです.


孫の初めての運動会ということで,実母にも来てもらいました.後片付けがほぼ終わったところで*6,園長先生がグラウンドからこちらへ向かってくるのを見て,母は「挨拶しとくゎ」と言って近づき,二言三言,交わしました.あとで母は,私ではなく妻に対し,「丁寧に挨拶してくれたでぇ.それにしてもよお動く先生やなぁ」と言っていました.
母には,いつまでたっても頭が上がりません.さしあたり,幼稚園であれ小学校・中学校であれ,我が子の担任の先生と会話をする機会ができたときには,「お忙しいでしょ.こちらでできることがあったら,おっしゃってくださいね」と言えるようになりたいと,思うようになりました.

(最終更新日時:Wed Oct 10 05:43:17 2012ごろ)

*1:年少は1,年中と年長はそれぞれ2の,合計5クラスです.

*2:1チームは男性10名,女性4名,そして綱を持たない「旗振り役」の応援2名で構成されていました.

*3:引用者注:訳書ということもあり,漢字の並びが続くのはやむを得ない.「持続的過程」は「漸進的改善」の言い換えであろう.isbn:9780684852744 pp.109-110を見ると,前者は"gradual improvements"で後者は"continuous process".単複の違いは,主語に合わせたためか.

*4:引用者注:「校区内」ではなく,県や市町村といった近隣エリア(からなる複数の学校・教員)を指す.

*5:「計算できない子もいるかもしれませんね(笑)」は,計算ができない子を想定して笑っているわけではなさそうです.計算ができなかったり,言い間違えたりした子は,ゲームを終えて自分ひとりで(あるいは友人や,家族との会話の中で)計算をしてみて「あっ」と気づく可能性があります.「誕生日を3でわって,あまりが1の子」であるかは,ゲームの最中は本人しか知らない,というのが重要になってきます.

*6:運動会が終わったらすぐ解散,ではなく,保護者と先生とで,用具やらテントやら万国旗やらを撤収させ,それから各教室にいる子らのところへ保護者が迎えに行く,という流れになっていました.