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組み体操に「強制」

先に書いておきますが,本日のタイトルはミスリーディングです.「組体操を子どもたちに強制するのは,良くないよなあ」と思われた方につきましては,以下そんな話ではありませんので,ごめんなさい.本旨は「組体操を抑制する理由として『強制』を持ち出すのには,違和感がある」となります.
「組み体操」に関する報道で,「強制」の文字を見かけたのは,以下の記事でした.

大森不二雄委員長は「これは人権問題。達成感や一体感を味わう子がいるのは事実だが、そうでない子にとっては強制になってしまっている」と指摘。その上で「ピラミッド・タワーの禁止はもう議論の余地はない」と強調した。

http://www.asahi.com/articles/ASJ290HBFJ28PTIL029.html

昨年秋より,『教育という病』やネット上の情報に触れ,また少ないながら購入した,組体操のやり方の本の読み比べを行ったり,我が子の通う小学校の運動会にも立ち会ったりしながら,個人的に組体操を見てきた者として,段数制限から踏み込んで,実施そのものを禁ずる措置としたことには,賛成とも反対とも,思っていません.
あえて言葉にするなら,そういうルールができたこと(字面だけでなく経緯も)をよく認識した上で,その制約のもとで,1人から2人,複数人へと体を動かしながら,運動会で披露するものとして何がいいのだろうかと,考えたり,来年度以降にも運動会を見させていただいたりすることでしょうか,自分にできるのは.
なお,ケガが多いからピラミッドや,組体操そのものを禁止とする論調は,少しばかり反対です.その場合,ピラミッドや,組体操をしなくても,別の競技(やその準備)でのケガがクローズアップされるだけだからです.「第1番の問題を取り除くと,第2番が昇格する」という,ルウディのルタバガ法則*1です.


「強制」を持ち出すのは誰でどんな文脈かについて,これまで目にしてきた情報を,新しいものから遡る順に見ていきます.はじめに思い浮かぶのは,先月末の記事です.

4ページ目に「しかし、組体操への強制参加は、そんな子どもたちの個性を無視して、全員に骨折の危険を強要することになる。」,5ページ目に「では、組体操への参加を強制することに、普遍的に説明できる価値はあるのだろうか。また、それは、組体操以外の安全な競技では得られないものなのか。」とあります.そういえば,任意参加って,聞いたことないですね.
この執筆者(木村草太氏)と,長きに渡って組体操の問題を指摘し続けてきた内田良氏との間の対談が,先月7日付けで出ています.

ここにも「強制」の文字が見つかります.3ページ目で,組体操ではなくPTAの話です.「学校から独立した団体で、完全な任意加入団体であるにもかかわらず、現場では事実上強制で、全員が自動的に加入する形が非常に多いと言われています」という,木村氏の発言がその最初です.また部活動に関して相づちを打ちながら,「学校では本当によくそういうことが起きるんですね。強制で何かをさせるというのはたいへん恐ろしいことです。その人から時間や自由を奪うわけですから、それによって生じる弊害が非常に大きい。」という発言もしています.
これらと別口の,教科内容における「強制」の指摘は,いわゆる「かけ算の順序」で出てきていました.wikipedia:かけ算の順序問題にも,別称の一つに「かけ算の順序強制問題」が書かれています.ただこれは,黒木玄氏の独自表現と思われます.Wikipediaの当該記事に文献情報が載っていますが,書誌情報,セクションの一覧と,当ブログ記事のリストは文献:黒木2014 - 「×」から学んだこと@wiki - アットウィキで整理してきました.電子テキストの全文公開が望まれます.
黒木氏が2010-2011年ごろに作ったかけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきであるにも,「結果的に不要な特殊ルールを子どもに強制したままで終わってしまうような教え方を広めてしまった可能性があります。」といった表現が見られます.なお,国内外の算数・数学教育まで念頭に置くと,この方が批判の対象としているのは,その分野で確立してきた「乗法構造」や「かけ算・わり算で計算できるモデル」の1つであり,関連する構造やモデルに目を向けていない点で,極めて一面的,また扇動的なスタンスであると,判断せざるを得ません.
冒頭の記事の「強制」は,報道がその通りであれば,大阪市教育委員会の委員長によるものです.ここまで取り上げてきた「強制」は,いずれも大学の先生方が使用しています.とはいえ,それぞれがご専門とする,憲法学,社会教育学,そして数学で,学生相手に専門のことを話す際に,日常的に「強制」を使ったり,意識したりしているとは,想像できません.そういった面で「強制」は,教育の制度や方法に関して,ネガティブでしかも手軽に使える用語となってしまったように思います.


組体操に話を戻しまして,「強制」の代わりに何と言えば良いかですが,思い浮かぶ候補があります.「関与」です.英語ではinvolvementです.
高等教育(大学教育)の話で,この言葉が,意義とともに用いられた文書を目にしました.

「学生関与student involvement」とは、「学生が学習に対してどのくらい時間、エネルギー、努力を割いたかを問うもの」と定義されている。この意味での学習により関与した学生はそうでない学生と比べて、より多くの成長や達成があり、教育への満足度も高い、卒業後継続して学習していく力も高い、と考えられている。

学生関与

教育と別の分野だと,消費者行動研究において,関与は特有の意味を持っています.様々な分類も試みられており,その知見が,教育に転用できるのではないかと思いました.昨日はてブした,11章 消費者の関与消費者行動研究における関与研究については,分野外の者でも読みやすい内容でした.
「関与」が堅苦しいなら,「主体的にかかわる」はどうでしょうか.組体操でも,他でもいいのですが,演目を学校の先生方が決めて児童生徒らが粛々と従うのではなく,組体操をするのか否か,するのならどんな構成や隊形にするのかなどを,子どもたちが応分の負担をもって検討し,先生の承認を得ながら準備を進め,運動会当日に披露すればいいのです.
「応分の負担」については,もう少し書いておきましょう.クラスの体育委員は,学級委員と連携しながら,より多くの準備や情報提供が期待されます(このことを念頭において,年度の初めや改選のときに立候補を募るわけです).それ以外の子どもたちも,組体操の動画やDVDを視聴して紹介したり,コンピューターの得意な子はExcelファイル(手前味噌ですみません)に当てはめてみたりといった形で,それぞれ主体的にかかわることができそうに,思ったのでした.


日記のリリース後に得た関連情報:

  • 「英語教育神話」の解体―今なぜこの教科書か』という本では,中学・高校英語教科書の代表著作者など編集に携わった方々が,新たな教科書を提案しています.まえがきの中に(pp.1-2),「国の政策を推進するための英語教育ではなく、子どものための、子ども中心の、真の英語教育を構築しなければならない。そのためには、①真の英語教育とはどんな内容の教育か、その内容を明確にすること、②学習指導要領の強制をやめ、教師に教育・指導の自由を保障すること、の二つが必須条件である。」という形で,ネガティブな意味合いで「強制」が使われています.
  • 子どもたちが組体操の内容を企画する事例が,見つかりました.組体操は、技を教えるのではない! 心を育てる組体操の実践を! - 教育つれづれ日誌 | 学びの場.comです.ただし,教師主導で企画や指導にあたっており,子どもたちの企画は,第1場面とフィナーレに限られ,具体的に何をしたのかは明示されていません.昨年末に登録された文章であり,プロフィールによると著者の専門は算数なのも,興味深いです.

(最終更新:2016-02-14 夕方.タイトルを,「組み体操に「強制」は似合わない」から変更しました)