わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

子どもとの対話,大人との対話

可能な限りの情報収集,また自分なりの考察を経て,もとの問題で
「ねえ,お皿に1個ずつ乗せるのが3回だから,5×3=15って書いたんだけど,これってバツなの?」
と言う子どもに,アドバイスができるようになったと思っています.基本路線は,cで解いてもdと同一視される,cからaに移りなさい,です.あくまで基本路線であって,実際にはその子どもと対話しながら言葉を選びます.教えちゃるぞと意気込んだ側が,学ぶことだってあるでしょう.そうそう,「バツ」なのであって「ダメ」ではないのだというのは,教育の観点でも算数・数学の観点でも,大事なことですね.
そういった対話やアドバイスができるのは,やはり,その子の将来を考えてのことです.aの思考は,かけ算に限らず,思いついた式や導出過程を強固にするとき役に立ち,受験で活用できます.より実用的には,算数よりも,国語ほかで理由や少々長い文章を書くときでしょうか.
また職業として趣味として,あるいは夏休みの宿題として,研究をする際に,口頭発表,論文,原稿やメモを通じて,自分が計画し実施した内容を誤解なく伝える必要があります.その場合,最初から完璧なものを形にしようとする*1のではなく,情報や知識を増やしながら,考えを整理し見直し,洗練させていく作業が,不可欠です.
小学校の算数から,大学でするような研究へというのが,飛躍しているというのなら,例えば「大人に協力を求めるとき」というのは,どうでしょうか.そこでもまた,自分(たち)で計画し,それまで何をしてきたか,成功に向けて何をするつもりなのかを伝え,了承をもらうことになります.誰に・いつ・何を言うかを間違えると,失敗することもあるので,発言(やプロジェクト管理)は慎重に行います.手伝ってほしいと言われた大人は,やりたいという意欲を尊重し,大人・自分でないとできないことに関与するとともに,子ども(たち)であってもしてはいけないことは,注意したり阻止したりすることになるでしょう.成功をともに喜びたいですし,失敗したとしてもその努力をほめ,これからにつなげられるよう,新たな方向を示すという責務も,あると考えています.
ここまで,大人は,子どもと対比する存在として取り上げてきました.それと別に,先生と児童のやりとりの一部を見て,大人同士で議論しているという姿もあります.
その中には,「cで解いてもdと同一視される」という事実や,aの考え方を知覚することなく,なんでbにこだわるんだ,cもあるじゃないかと,壊れたスピーカーのように叫ぶ大人もいます.
そういう大人に対して,一連のエントリを見せても,おそらく意思が変わることはないでしょう.いやむしろ,スピーカーの音量はますます上がりそうです.とりまとめて体系化しようとするアプローチをとらず,議論・対話を装ってコメント欄をいたずらに長くします.実際にはスピーカーではなく人間なのですが,対話を打ち切ると,最後のコメントが勝ち誇ったかのように残ります.
たしかに,そんな人との対話は無理です.「ここから新しい人は育たない」の一言を残しておけば,十分でしょう.

*1:最初から「理想を思い描く」ことは,成功に向けての大切な考え方だと思います.しかしそれは形になっていません.ここでも,Publish or perishという言葉を思い起こさせます.