わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

「数ありて後命数法あり」でも「命数法ありて後数あり」でもどっちでもいい,とはいかないらしい

補注,コメントを含めて,楽しく読ませていただきました.
本文と※1について,『新式算術講義 (ちくま学芸文庫)』はその緒言を読んだところ,教師と,数学を専攻する学生に向けて書かれた本のようです.しかし,算数・数学教育の本とはしていません.
算術という教科や,そこでの指導法(教授法)を認識した上で,先生方ぜひ読んでねと書いているところを,抜き出します.

普通教育に於ける算術の論ずる所は一見甚卑近なるが如しと雖も,若し深く問題の根柢に穿入せんとするときは,必しも然らず.夫れ教師は其教ふる所の学科につきて含蓄ある知識を要す.算術教師が算術の知識を求むる範囲,其教ふる児童の教科用書と同一程度の者に限られること,極めて危殆なりと謂ふべし.確実なる知識の欠乏を補ふに,教授法の経験を以てせんとするは,「無き袖を振はん」とするなり.是を以て此書は広く算術の教授に従事する教師諸氏の中に其読者を求めんと欲す.
(p.9)

「無き袖を振はん」を含む文で,「心構えは技能の代用にはならない」を連想しました.それはさておき…
本を話の起点というか論拠とする限り,数学的な理解の仕方と,算数という教科教育での使われ方・教え方は,異なっていて当然じゃあないのかなあと思っています.
「数学的立場」と「指導の立場」が明瞭に書き分けられている,比較的最近出された本として,『新編算数科教育研究』を挙げておくことにします.
次に,※2の「フランスの教育事情」は,時期からして「数学教育の現代化運動(現代化)」ではないかと思います.
日本にも影響があったことは,「数学教育の現代化」という言葉は何を指しているか | TETRA'S MATHでうかがい知ることができます.そのエントリつながりで,『現代化数学指導法事典 (1971年)』が,ちょっと気になります.Googleブックスでは「電子書籍がありません」で,うちの大学図書館だと書庫に入っています.
それから,Sparrowhawkさんが3番目のコメントで,おそらく入れ子構造としてのかけ算 | メタメタの日をベースとして,五十に対する乗法的な見方を書かれています.ですが私は,「五十は,十が五つ」というのが,理解しやすいし教えやすいと思っています.「5メートルは,1メートルが5つ」と同じです.
五十(という数がどんなのかを理解し共有する)にせよ,5メートル(という量がどんなのかを理解し共有する)にせよ,まずは,「×」や「〜倍」や四則演算を陽にしない,という立場です.
これは,立場というか見方ですので,どれが正解でどれが間違いというわけではおそらくないと思うのですが,漢数字による表記や,それに基づく数の読み方十進位取り記数法の話で,乗法的構造を重視したときに生じる問題点を,一つ,指摘することができます.4・10・8=8・10・4(あるいは4×10×8=8×10×4)なのに,四十八と八十四は違うのはなぜなのでしょうか?

タイトルについて

数の集合をN,数の表現(「其名」)を定める写像をf,数の表現の集合をSとしたとき,

  • 「数ありて後命数法あり」は,∀n[n∈N ⇒ f(n)∈S]
  • 「命数法ありて後数あり」は,∀s[s∈S ⇒ ∃n[n∈N ∧ s=f(n)]]

といったところでしょうか.なお,fが全単射であれば*2,その逆写像をgとおくことで,「命数法ありて後数あり」は∀s[s∈S ⇒ g(s)∈N]となり,表裏の関係と言ってよさそうです.

(最終更新日時:Thu Jun 14 20:41:32 2012ごろ)

*1:"modernization"という単語を含む段落があります.そこで書きたかったのは,「アレイは数学教育の現代化運動と同時期に普及し,現代化衰退にもかかわらず生き延びて,いまも算数で活用されている」なのですが,"the arrays survive now"でうまく書けているようには思えません.時間をとって,リライトするとします.

*2:単射であることはほぼ明らかなのですが,全射とするには,Sを適当に限定する必要があります.