- 作者: 高橋輝次
- 出版社/メーカー: 東京書籍
- 発売日: 2000/07
- メディア: 単行本
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私も論文の著者校正のほか,学生の書く文章の校閲や,各種文案のチェックに携わってきましたので,公になる前の校正の大切さと,チェックしてもチェックしても公になってから見つかるミスの残念なことについては,つよく共感できます.
言葉としては「猿」と「支那」が気になりました.猿というのは…
(略)たとえば「トル」という文字を書いておくと、何でもトッてしまう。「サルトル」が「サルクレ」と誤植になっている場合、「クレ」の部分を「トル」と直すよう指示しておくと、取られてしまって「サル」になってしまう。これは「サルトルが猿になった話」として有名らしい(古沢典子“校正の笑い話”「エディター」七八・一)。
(p.236.紀田順一郎「行間を縫う話」)
猿ですか.羊なら,読んだことがあるぞと見直したら,校正記号で,記事にリンクしていました.
・「クアララルンプール」の「ラ」が衍字なので、「トルツメ」と指定したところ「クアトルツメラルンプール」となって出てきたこと。
http://book-read.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/19991999320_bab0.html
逆に、「百メーター」を「百メートル」と直そうとし、「ター」の部分を「トル」に直す指定をしたところ、「百メー」となって出てきたこと。
(引用にあたり一部改行を詰めた.)
もう一つの「支那」なのですが…
(略)支那の何という人だったか、書物の誤を考えながら読むのも、また読書の一適だといっている。さすがに支那にはえらい人がいると、それを読んで私は、すっかり頭が下がった。(略)
(p.139.森銑三「誤植」.p.150(林哲夫「錯覚イケナイ、ヨク見ルヨロシ」)でも引用されている)
校正のむつかしさを、葉を掃くがごとしと言つたのは支那人である。一つ見つけて整理したと思ふころにはまた一つ見つかる。あとへあとへきりのないところを、校正者の側から落葉の庭を掃くと見立てたのであらう。(略)
(p.188.佐藤春夫「誤植といふもの」)
いずれも,「支那(人)」に「先人」のニュアンスを含め,敬意をこめて書いているところに,驚きを覚えました.なお,森の文章は,底本こそ平成9年のものとなっていますが,wikipedia:森銑三によると1944年が初出のようです.佐藤の文章は,底本と同じ昭和31年(1956年)としてよさそうです.
まあこういった文章があるからといって,「支那」を当たり前のように使っていいってわけにはいきませんが.
ATOKで「しな」と打って変換したところ,候補に「支那」が出てこない*1ので二度びっくりでした.
*1:「志那」とは出ますが,これは人名でしょう.