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筑波が模範の「学び合い」,川喜田二郎の「移動大学」

  • 磯田正美: 学習形態にみる目的,効果,課題とは? ―課題も含めて海外浸透する日本の学び合い―, 算数授業研究, Vol.93, pp.12-13 (2014).

算数授業研究 VOL.93

算数授業研究 VOL.93

日曜日の朝4時ごろのことです.学会1日目そして自分の発表を終えた,次の日の早朝です.ふと目が開いたものの,寝つけません.数日前に購入した,上の本を手に取って,頭に入らないまま読んでいくと,眠気の吹き飛ぶ記述に,ぶつかりました.

●何を「学び合う」のか
海外で,何を主題に日本型授業研究を導入するか。2つの動向がある。一つは「日本の授業研究」\simeq*1「問題解決の授業」\approx模範「筑波の算数」とみる動向である。そこでの学び合いの中核は一斉指導下での多様な考えの発表と比較検討である。典型はタイである。もう一つは,「日本の授業研究」\simeq「学びの共同体」\approx模範「佐藤学理論の実践校」とみる動向である。そこでの学び合いの中核は班活動であり,典型は台湾である。

模範は筑波の算数ですか,それは“佐藤学理論”と対等ですか.……
読み進めます.

(略)前者で,班活動は指導法上の選択肢の一つ,単なる手段である。対する後者では,班活動それ自体が目標となる。参加の仕方や司会,記録など分担の仕方などの相互貢献を学習内容とし,それが論点となる。学びの共同体への学校改革を担う管理職は,経営の専門家。中身の専門家ではないので質は教師次第。班活動を制度として求めることが仕事で,班活動の有無が学びの共同体のインディケータとなる。インディケータとなれば,班でなければ学びの共同体ではないというようなこだわりが生まれる。(略)

「活動それ自体が」は,川喜田二郎の新書で読んだはず.……
大学に到着し,研究室で充電していたデジカメや,2日目用の記帳簿などを点検しながら,ふと,新書のことを思い出しました.本棚を探すこと1分,見つかりました*2

創造性とは何か(祥伝社新書213)

創造性とは何か(祥伝社新書213)

心情陶酔の問題点
移動大学をやったとき、これに参加した若い人々は、二週間のセッションが終わったとき、ものすごく燃えて、やる気を起こした。つまり心情的陶酔のようなものを得たのである。すると、まったく人が変わったみたいになってきて、そのとき、私はなんとなく新興宗教みたいな感じを持ったほどである。
ところが、そこからが問題であった。心情的陶酔感を実感した人達の一部に、今度は、それをゴールにして移動大学をやろうとした人たちが出てきたのであった。しかし、心情的陶酔とは結果として起こるものであって、それを目標にして移動大学なんかやったら、これは本来的なものとはかけ離れた脱線であり、冗談じゃない、と言わざるをえない。こういう人たちが出てきたということが問題なのである。
(pp.135-136)

(略)心情的陶酔を目ざしたシステムでは、この[フィールドワーク→データ集積→KJ法]という段階をすべて飛ばして、お祭り気分のほうに直行してしまうのである。また心情陶酔派がチームの中心にいると、クールに現実を見つめる人々を、全部、移動大学的ではないといって撥ね出してしまう傾向が出てきた。そういう人たちは現実感覚が薄く、心情世界のなかだけで現実を幻想しているだけなので、実際のプロジェクトを遂行する能力に欠けるといっていい。
(pp.136-137)

「撥ね出してしまう傾向」については,すぐあとで事例を挙げています.ある移動大学の実施まで1か月を切ったにもかかわらず,心情的陶酔型で準備をきちんとしていないプロジェクトリーダーに対して意見をしたところ,「すると彼は、私が創始者だから創始者の特権を使って、われわれに圧力をかけてきた、などと仲間に宣伝した」(p.139)というのです.その後どうなったのか,そこから川喜田は何を教訓としたかについては,同書を手に取ってご覧ください.

ともあれ,2冊の本を結びつけ,以下の2つの対応関係を発見することができました.

  • 「筑波の算数を模範とする学び合い」と「川喜田二郎の問題解決システム」:手段と目的の区別
  • 「班活動を制度とする学びの共同体」と「心情的陶酔型のプロジェクト」:活動それ自体が目標

とはいえ,筑波のやり方を取り入れても授業が思うようにいかないケースだって,班活動を各科目で徹底することで効果的な学級づくりができている状態だって,想像できます.実際,磯田は前述の記事の中で,タイの状況として,4人一組で班活動をすると,「4人のうち,実質的に2人はいつも他人任せ。おかしいと思っても,その班体質では,弱者は発言を控えるのだ」「既習を生かせば絶対に現れる算数の本質的な考えとしての誤答は「強者に追従する」班体質ではかき消される」と指摘しています.
“システム”は多数の成功例・失敗例を通じて構築され確立していること,人は自らの成功例を,他人の失敗例とともにアピールしがちであることには注意して,学会の後始末を滞りなく行い,これからの研究室運営などに役立てていくようにします.


算数授業研究(Vol.93)で,ほかに気になったところを:

  • 「問題に挑戦」という読者投稿の募集があります(pp.30-31).投稿には解答のほか,学校名・学年・氏名・担任の先生の名前,そして担任の先生による「取り組んだ形態」も必要です.第2問は中学生向けかなと思いましたが,小学生の言葉でどう表せるのかを,募集サイドでは期待しているのですね.
  • 筑波大学の「初等教育学コース」で,田中博史と細水保宏が「算数科教育法」の授業を担当しているとのこと(p.36-37).記事後半では「長方形と正方形は別のものでしかない」などが書かれていました.ネットの情報を意識されているのでしょうか.
  • 小数のかけ算に関して,「(略)なぜなら,『1m分の値段×長さ=代金』は乗法の意味としては誤りだからである.そもそも「円×メートル」という式に疑問を抱く子どもがいないこと自体がおかしい」(p.46)にはびっくりしました.その疑問は,「1mのねだんが85円のリボンを25m買うと代金はいくらか」(小学校学習指導要領解説 算数編)などを解く第3学年のときに抱き(あるいは先生のほうが「円×メートルって,変だと思わない?」と尋ね),解決しておくべきと思ったからです.
  • アレイを用いたかけ算の活動・活用が,p.53とpp.62-63にありました.


Q: 「一斉指導下での多様な考えの発表」ってあるけど,本当に多様なの? どうしてかけ算の答えは一つなの?
A: 授業で「さらが 5まい あります。1さらに りんごが 3こずつ のって います。りんごは ぜんぶで 何こ あるでしょう。」という問題を出し,5×3=15という式を書いた子どもがいたら,「それだと3枚の皿に5個ずつだよ」と他の子どもが発言することが,その授業における“比較検討”に含まれているからではないでしょうか.*3
Q: かけ算の順序論争は,心情的陶酔?
A: 心情的陶酔とは異なる種類の熱狂・陶酔ですね.あえて接点を探るなら,「実際のプロジェクトを遂行する能力に欠けるといっていい」という川喜田の指摘と,かけ算の順序に批判的な人々による,算数教育の改革を提案・実践する姿が見当たらないところ,でしょうか.

*1:原文ではこの記号は下は2本線で,TeX記法で「\cong」と書けば出てくるはずの文字です.はてなダイアリーTeX記法で,表示されなかったので,\simeqで代用しました.

*2:学会関連のことを,書いておくと,自分の発表で「KJ法マインドマップ,ロジックツリー,TRIZ,思考展開図」を挙げたのですが,それらは2008年の国際会議で投稿するにあたり,関連研究を調査して取りまとめていました.その内容はほぼすべて,2010年の論文(IEICE Trans. Info. Sys.)にも載っています.TRIZは,情報交流会前に案内したクリエの中でも使用されているようで,昨年,学内の講習会の案内メールの中に,書かれていました.

*3:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130316/1363388038