わさっきhb

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「指導します」は「黙れ」

私の経験ですが、子どもが小学生時代、大変な先生に当たったことがありました。(略)そういう先生は大体コミュニケーションが取りにくいのです。何度話しても通じていないということが分かってきました。そこで、校長先生や教頭先生なら、その先生のことを知っているだろうと考えて、4人で話すこともありました。そのあと校長先生、教頭先生と「どうしますか」という話になった時に、「保護者のおっしゃることはよく分かりました。だから、ちゃんと担任を指導します」といわれたのです。その時にはストレートに意見交換できる関係にもなっていたので、少しきびしいけれど、「校長先生、それは指導できると思って言っているのですか。この場の言い逃れのためにおっしゃっているんですか」と尋ねたのです。「指導するというような生半可なことでできないから、いまこうなっているんじゃないですか。だから、それはちょっと危機管理としては無責任じゃないんですか」と言ったのです。
校長先生は「指導する」と言わざるを得ない状況であるということは分かるけれど、しかし、危機管理というのは具体的でなければならないと思います。ですから、「校長として指導しますとおっしゃるということは、あなたたち親は黙っていてくれ。何もしなくていい。私が全部やるからというメッセージにしか聞こえないのです。親は、親として力を発揮し参加して解決しようという気持ちで言っているのです。担任がだめだとか担任を替えてくれという単純な話をしているのではないのです。学校にもいろいろ事情があることは理解しているのです。けれど、次に打つ手はどういう手があるかということをお互いに考えるために話し合っているのであって、そのときに、私が指導しますという言葉は、ヘルプしてくれなくていいというメッセージにしかなりませんよ」と言ったのです。
こうした話し合いで、その校長先生が偉いなと思ったのは、「よく分かりました、皆さんで担任の先生の至らないところは全面的に支えてください」と、そう言われて初めて親は参加できるようになったのです。
(『地方国立大学 一学長の約束と挑戦』pp.143-144.強調は引用者)

一言でまとめるなら「親の切実な訴えが,校長の意識を変えた」とでもなりますが,上の引用には,いろいろと考えさせられるものが含まれています.
文中にない言葉で,思い浮かんだのは,「確信」です.話し合いを通じて,保護者から見える課題を校長先生が認識し,あとは担任の先生を指導すれば何とかなるだろうという「確信」があり,そう発言したとしても,指導しますを耳にした親=著者からすると,それでは問題解決できるという「確信」(もしくは確証)が持てない,というミスマッチが起こっていたように見えたのです.
次に配慮が必要と思ったのは,校長・教頭という役職ではないものの,自分も,指導する立場として外とコミュニケーションをとる必要がある点です.不用意な発言が,指導する学生だけでなく,外の人に,言外のメッセージを与える可能性があるのにはくれぐれも注意し,しかし何も言わないわけにはいかないので,各参加者そして自分自身も納得のできる,タイムリーな発言が求められます.
ただ,自分の場合は対応が容易で,主に「システム(動くモノ)にするのに何をすればいいか」と「実施にあたっての外的要因はなにか」を意識しています.前者は,外の方のおっしゃる要望や,そこからうかがい知ることのできるニーズのうち,研究室内の活動で実現可能なものについて,どう具体化すればいいかを,学生に伝えながら,外の方にも理解してもらうよう言うようにしています.後者について,外的要因の代表は「日数」です.相手さんの重要なイベント日はもちろん,学生の卒論・修論,ゼミ発表・学会発表といったスケジュールを,無視するわけにいきませんし,科研費であれば年度ごとそして最終年度に,どのような成果となるかが期待されています.「いついつまでにこれこれをしましょうかね」と学生に向けて言い,期間が限られている事実を共有しながら,情報交換の橋渡しをするのも,大事な役割だと思っています.
もちろん,親の立場もあります.担任の先生ではだめだ,校長先生に交渉を…という展開はまずないとしても,管理職にあたる方と,今後,意見交換をすることもあるだろうから,「どうですか」と声をかけられたとき,要望が一切ない場合でも,こちらの意識を手短に伝えることも,必要となってきます.
実は昨年のうちに,この4月に入学する小学校の校長先生(と,あとで妻に教えてもらったのですが)といくらか会話をしました.具体的な問いかけを,ここで書けないのが残念ですが,親の気持ち,子の気持ちをよく汲んでいただけそうなメッセージが,含まれていました.
引用にある「親は、親として力を発揮し参加して解決しようという気持ちで言っているのです」については,pp.145-147に関連した記述があります.著者が(「いま感じていること、考えていること」ではなく)「みんなが自分の見えている風景をしゃべりましょう」と各親に提案し,それぞれの子どもを情報源とした「都合のいい風景」をつなぎ合わせると,クラスの全体像が見えてくるわけで,それを共有した上で,誰に何をしてもらおうかという展開となります.
「親自身が一定の情報の整理をすれば、その危機を親自身で支えられるというのが、今の市民の能力の水準でもあるのです。」(pp.146-147)が,その一節で著者が最も伝えたいことであろうとともに,状況認識ができたあとの「こうなるとお父さんたちの問題解決能力は相当なものです。お父さんたちは、企業や仕事の中で様々なトラブルを処理しているわけですから。」(p.146)は,仕事と家庭を持つ,いまの「お父さん」向けのエール(応援メッセージ)と受け取りました.