わさっきhb

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構造化され構造化する

2016年になりました.今年もよろしくお願いします.
年末に1冊,本を購入しました.

[isbn:9784491031552:detail]

1991年に出版された"[isbn:1850006679:title]"の日本語版です.ページ数が多いので,飛ばし読みなのですが,正直なところ,頭に入ってきません.巻末の索引は充実していますので,数学教育を論じている他のところで,気になる人物名や用語が出てきたときに,この本に立ち返ろうかと思っています.

ただ,ここ数年の個人的な関心である「構造」について,「古典的人間主義者」と「進歩主義的教育者」を対比した文章の中に,少し面白い記述があったので,取り上げることにします.二者の紹介そのものは,本記事の主旨ではありませんが,同書から抜き出すと,数学の古典的人間主義者は,数学に本質的な価値を置き,数学教育の目的を,数学それ自身の伝達としています(p.261).それに対し,進歩主義的教育者と数学との関わりは,「人間は進歩しており数学の完全な真理により近づくと見られている」(p.281)が最も顕著なところです.
古典的人間主義者の理論(著者の観察)について,書き出します(pp.274-275).

学校数学の知識の理論
 学校数学は,その学問自身と同様に,純粋で,階層的に構造化された自立した客観的知識の体系であると理解される.その階層を上がれば上がるほど,数学はますます純粋で厳密で抽象的になる.生徒は,彼らの「数学の能力」に従って,この階層をできる限り登ることを促される.彼らが登るに従い,彼らは「実際の」数学,大学段階で教えられ学ばれる教科により近づく.
(略)
数学学習の理論
 学習の理論は,大きくは論理的に構造化された数学の知識の体系とそれに結び付いた思考の様相との受容と理解に関係する。成功的な学習者は,数学の純粋な概念構造を内面化する。すなわち,それは論理的な連鎖と数学的な関係とそして基本的な考えによって相互に接続された概念や命題の階層的なネットワークであり,数学の構成を写し出している。正しく学習されると,数学の知識を使って学習者は数学の問題やパズルを解くことができる。生徒は,彼らの才能や創意によって,この知識を応用する中で,異なったアプローチや方法を見つけることが期待される。
数学指導の理論
 教師の役割は,この見方によれば,数学の構造を意義深く伝達する,講師や説明者である。教師は,刺激的な話しぶりで感激させるべきであり,構造化された教科書のアプローチに合わせて,数学の課程を追加的な問題や活動で豊かにすべきである。最善の状態では,多様なアプローチや照明や活動が,学習や理解を動機付けたり促進したりするのに用いられる。指導は,慈悲深い師と生徒の関係を。すなわち,師は,知識の所有者であり,知識を生徒にできるだけ効果的に伝達する。(略)

 進歩主義的教育者については,伝統(進歩主義により蓄積された知見)の中に,上記とやや意味合いの異なる「構造化」が書かれていました(pp.290-291)。

 数学教育における進歩主義的教育者のイデオロギーは,主に,過去百年間の事柄である。数学におけるこの伝統について三つの相互に関連した流れを識別することができる。

  1. 数学の学習のために適切に構造化された環境と経験を供給すること。
  2. 数学における子どもの活動的で自律的な探求を育成すること。
  3. 子どもの感情や動悸や態度に感心を持ち,否定的な側面から子どもを隠蔽すること。

 20世紀への変わり目から,進歩主義的教育者は,子どものために適切に構造化された環境や経験を与えようと試みてきている。数や代数のような内容のための構造的な数学的器具*1の開発をするのに,かなりの創意が関係してきている。(略)

章全体を読みながら,「構造化」の位置づけを考えてみると,相違点が浮かび上がってきます.古典的人間主義者の理論では,数学とはこういうものだという「体系」があり,それを学習者が理解するために「純粋で,階層的に構造化」され,「論理的に構造化」されたと見ることができます.一方,進歩主義的教育者の知見によると,「数学の学習のために適切に構造化」して供給することが,その特徴の一つとなります.
なお,後者の引用で「構造化された」と受動態になっており,英語の原文も"1. The provision of an appropriately structured environment and experiences for the learning of mathematics;"と,過去分詞形のstructuredが書かれています.しかし,「適切に(appropriately)」という副詞があること,そして進歩主義とは何なのかを意識すると,目の前にいる学習者(子ども)に対して,教師が適切な道具を選んで使い,満足いくものがなければ自分で作るといった状況が想像できます.そこで,「構造化」に関して教師が能動的に関わる必要があると理解しました.
「構造化」を能動的にも受動的にも解釈できる…といえば,関連するのは「デザイン」です.2008年に,思案をブログ記事にしていました.

情報の分野では…というのが大げさすぎるなら,私が指導している範囲では…「デザイン」や「設計」の後ろに「する」をつけます.すなわち“行為”です.デザインする,設計する,そのためにどのような手法があってどれを適用すればいいか(を教えること,そして自ら実践すること)に苦心しています.
しかし上の定義は,「デザイン」のうしろに「された」をつけて,“状態”と解釈するのがよさそうです.プロトタイプ,そして完成品を作るための努力・苦労は暗黙のうちに含まれていて,その結果として,生産され,家庭で社会で使われていくというプロセスの見通しを重視して「デザイン」を定義しているのだ,と言えそうです.

小気味いいの2冊と勉強になる1冊

数学教育の哲学』に話を戻しまして,とはいうものの,原文のstructuredを「デザインされた」に置き換えるわけにもいきません.「構造化する/された」は,「デザインする/された」と完全に同一の意味というわけではありませんし,教育におけるデザインと言えば,ある文脈ではインストラクショナルデザイン(instructional design),別の文脈ではインテリジェントデザイン(intelligent design)が連想できてしまうからです*2
また著者としては,「古典的人間主義者」と「進歩主義的教育者」のどちらが明らかに優れているだとか,これからの教育は(後に書かれた)「進歩主義的教育者」だといった主張をしているわけでもありません.二者の特徴や経緯,また批判を,客観的に並べています.メリットとデメリットを理解しながら,目の前の子どもたちやネット上の議論に活用することは,算数・数学教育に直接,関わらない者でも行えることです.

*1:この種の器具について,古典的人間主義者のイデオロギーでは,p.275に「実際的な作業であり,純粋数学に不適切であり,したがって,いずれにせよ「実際の」数学を勉強しない遅進児のためのものである」とネガティブな評価を記しています.

*2:wikipedia:インテリジェント・デザインwikipedia:インストラクショナルデザインのそれぞれで,その信者や実践者にIDerという語を割り当てているのは,ちょっと面白いところです.