わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

子どもたちの死後観を揺さぶる授業

 小学校でのさまざまな実践,そして子どもたちの言動が,200ページ少しの新書でコンパクトに記載されています.算数の話は少なかったのですが,p.124の「ガラス戸が8枚あります。1枚のガラス戸につき、4枚のガラスが入っています。ガラスは全部で何枚あるでしょうか。式を立てて、答えをもとめなさい」は,かけられる数もかける数も同じ単位(枚)になる,順序を問う問題(8×4は間違い,4×8が正解)なのに気づきまして,当ブログ・サブブログで合わせて3つの記事に追加しました*1
 内容面でもっとも興味深かったのは,子どもたちの死後観を揺さぶる授業でした(p.118).

 三年生たちと「天国からのメッセージ」という半創作劇を上演したこともあります。現代の子どもたちが持っている「死んでも生き返る」という死後観や、「天国」というものに考えさせたかったので、空襲で全滅した一家が天国で再会するシーンでは、子どもたち一人ひとりに台本を書かせました。子どもたちのほどんどが、家族が天国で再会できて喜んでいるという会話を書きました。「やっと家族が一緒になれたね、ここで楽しく平和に暮らせるね」と書いた子もいました。そこで私が「空襲で死んだ子どもたちと天国で再会して、両親は幸せだと思うかな?」と投げかけると、子どもたちはハッとしました。「小さい子どもが早く死んで喜ぶ親がいるはずがない。子どもも同じだ。幸せは現実に生きていてこそ味わえる」「天国が楽しくて幸せなところなら、誕生したらみんな早く死んだ方がいいことになる。そんなばかな話はない。今やっと気がついた」。テレビや漫画が作った「死んでも別世界でそのまま生き返る」という考えは崩されました。

 現実を生きていく---つらいときもあるかもしれないけれど---中で,幸せをつかむ(または確認する)ことの大切さを,劇の準備と上演を通じて理解する,と解釈すれば,なるほどのエピソードですが,2つ,連想するものがあります.
 一つは「海の下に都」です.壇ノ浦の戦いです.きちんと情報収集すると,『平家物語』の「浪の下にも都の候ぞ」(wikipedia:平時子)や「浪の底にも都のさぶらふぞ」(https://w.atwiki.jp/chikugogawa/pages/212.html)が見つかりました.抱かれて入水したのは,安徳天皇です.
 『平家物語』のこの一節(創作なのには注意の上で)と,上の引用のうち「やっと家族が一緒になれたね、ここで楽しく平和に暮らせるね」には,「死んだらどうなるか」という不安を,生きている者が言葉にして,周囲に伝えることを試みた,という共通点があります.その後は違っていまして,都の話は琵琶法師の弾き語りにより流布していったのに対し,上記の子どもたちは金森先生のツッコミを受けて考え直す機会となったのです.
 また別に連想したのは,「天国が楽しくて幸せなところなら、誕生したらみんな早く死んだ方がいいことになる。そんなばかな話はない」に関してです.英語の仮定法のような話の組み立てですが,思い浮かぶのは,儲け話に対する反論です.「そんなに儲かるというのなら,他人に持ちかけずに,自分でやっていればいいではないか」と表現することができます.和歌山バスの車体広告で一時期よく見かけました.
 この件も,少し検索すると,『「脱」宗教のすすめ』のp.127に「そんなうまい話があるのなら自分でやって下さい」*2とあるのが分かりました.
 ここまで,思ったことを書いた上で,「天国からのメッセージ」というのを3年生が劇にする教育的意義があるのか,気になりました.起きてきた妻に,引用の箇所を言って聞かせると,「ちいちゃんのかげおくり,かな」と答えが返ってきました.光村図書の,3年の国語の教科書に掲載されているのですね.